連載・随筆  第91回
             日本商船・船名考 (]]]]]U
                (日産船舶の部) 
                                 松井 邦夫 (全船協・名誉会員)   え・文とも

 日産汽船株式会社は昭和9年2月1日に当初日本産業汽船株式会社の社名で設立されたが、 その後同12年11月22日に同系列会社の樺太汽船と合併、 会社商号を日産汽船株式会社と改称、 日本産業・俗称・日産コンツエルン傘下の輸送部門として両社の協調によって、 海運業界に初めて知られる様になった。
 元々この日産汽船の母体は日本汽船株式会社といい、 設立は古く大正4年12月に遡るが会社業務の実態は、 大阪鉄工所 (日立造船の前身) で建造の外航新造船のストック・ボートを保有して転売する目的の会社として設立され、 第1次世界大戦中に全世界の逼迫した船腹不足の影響で、 会社の決算は毎年莫大な利益を計上していたが、 大戦の終結と共に契約解消やストック・ボートの手持ち増加等で業績不振が続き、 創業者で社長の久原房之助(くはらふさのすけ)は同11年に到り会社幹部の退陣を決め、 後継社長には実兄で元日魯漁業社長田村市郎を起用して事業を任せ、 その後昭和2年には基幹事業の日立産業 (旧日立鉱山・前久原鉱業) を義兄の鮎川義介に託して政界入りを果たしたのである。
 田村社長は就任と同時に経営陣や人事の大刷新を行ない、 営業面ではストック・ボートを裸傭船し、 不定期船の運航を開始して会社再建を計画、 社長自ら役員や社員の先頭に立って経済不況の中を、 極度に切り詰めた低船費による海運事業を推進し昭和40年7月1日発行の社史 「日産汽船の歩み」 の中に 「極東各地や印度洋、 太平洋、 大西洋にまで配船して相当な成果を挙げる事が出来た」 と記されている。
 その後昭和5年末に至り、 日産コンツエルンの系列会社日本鉱業が、 予てからマレー半島で開発していたズングン鉱山の生産が軌道に乗り、 日本向出荷が開始されるに至り日本汽船では不定期配船を中止し八幡製鉄所向ズングン鉱石の輸送専属就航に踏み切ったのである。
 然しながら、 マレー半島東岸の鉱石積出港は開放錨地で、 冬期季節風時期には殆ど船積不能な状況で、 夏場は順調に稼動出来ても冬場は難しく、 他船社へ傭船に出すか或いは、 別の航路へ転用するなど、 社員一同の懸命な努力も甲斐無く不況の波には勝てず僅か2年余りで同8年春に至り、 所有船全部を国際汽船に譲渡して一時休眠会社となった。
 その後ズングン鉱山の開発が急速に好転して、 同8年末には早くも年間産出量70万トンに達し、 日本鉱業ではその輸送に頭を痛めていたが、 丁度その頃ノルウエー船主から大型船3隻の売船引き合いがあり、 丁度手頃な船で船価も安く日本産業首脳部の英断によって買船が決定、 翌昭和9年2月1日に至り急遽休眠会社の日本汽船を起用して、 資本金50万円の新会社・日本産業汽船株式会社が設立された。
 就航船は次頁に掲載の所有船一覧表 (第1表) の如く辰馬商会より購入の白辰(はくたつ)丸を、 大連に新規設立した龍運汽船に便宜置籍して当初は傭船として運航、 同12年7月に至り日久(にっきゅう)丸と命名して社船第1号となし、 ノルウエー船主から買船の3隻と追加購入船計4隻も最初は、 俗に変態輸入船といわれた便宜置籍の傭船として運航し、 同12年11月に会社名を日産汽船と改称した後、 日穂(にちほ)丸、 日安丸、 日明丸、 日泰丸と命名し以前の日本汽船当時と同じ様に、 日本鉱業のズングン鉱石輸送に従事したのである。
 鉱石輸送再開3年後の昭和12年11月22日には日本産業系列の樺太工業 (後の王子製紙) の子会社・樺太汽船との合併を決定、 会社商号は日産汽船株式会社と改称され樺太汽船から移籍の樺太丸、 第12栄丸、 弥生丸の3隻は夫々日龍丸、 日連丸、 日愛丸と改名され、 翌13年10月には共和汽船を合併して所有船維新丸を日和丸と名付け、 昭和13年末に所有船9隻、 6万余総トンを擁する船主となった。
          
 丁度その年の7月に日中戦争が勃発して日産コンツエルンの受注貨物量は急激な増加となって、 傘下関係各社の早急な外航配船の要求に直面した日産汽船では、 早速船腹調達の計画をたて、 先ず大型と中型各5隻、 計10隻の新造船を決定し、 大型船は川南工業で起工直後の成宮汽船の船を購入して日祐丸と命名、 あと4隻は大阪鉄工所に発注して日産丸、 日立(ひたち)丸、 日威丸、 日朗丸として建造、 中型船では浦賀船渠で建造中の木原商船の船を船台上で買船し、 日海丸と名付けて残りの4隻も大阪鉄工所で建造して、 日国丸、 日帝丸、 日運丸、 日南丸を完成して船隊に加えたが、 この短期間で大量新造船建造の快挙は、 当時の海運業界で驚嘆の的となり、 最終的には更に増えて一覧表 (第1表) に見る通り大型船2隻・日張 (ひばり)丸と日瑞丸及び中型船日達丸の計3隻が追加されて、 新造船は合計13隻が竣工したのである。
 昭和15年4月には静岡県清水の鈴与商店で、 小型船清水丸が建造され日産汽船の船隊に加わっているが、 この船に関する資料等が見当たらず詳細は全く定かではない。 続いて同年5月に富山県高岡の荻布(おぎの)海商を、 更に9月には石川県橋立の松田汽船を合併し、 荻布海商の隆福丸は日照(ひてる)丸、 ビクトリア丸は日美(ひび)丸、 喜福丸は日紀(にっき)丸に、 また松田汽船所有の松山丸は日山 (ひやま)丸と夫々命名され、 各社の既得航権と共に移籍されたが、 丁度その頃にもう1隻中古の海外買船があり日秀(にちひで)丸と名付けられ、 一挙に所有社船18隻が日産汽船々隊に加えられた。
 続いて昭和16年2月28日に日本鋼管鶴見造船所で平時標準A型船の日春丸が建造され、 翌17年には平時標準鉱石船K型の日鉱丸が完成しているが、 太平洋戦争開戦後の翌17年4月10日には北川海運産業が合併となり、 現物出資船として北盛丸と北明丸が移籍され、 夫々日錦丸、 日慶丸となっている。
 日産汽船の社船の命名由来に関する資料や文献などは特に見当たらないが、 日本産業汽船当時の社船第1号に、 社名の 『日』 を頭に付け、 創業久原家の 『久』 を続けて 「日久丸」 と命名し、 その後社船々名には 『日』 を頭に付ける習慣として、 所有船一覧表で見る様に総て 「日」 付船名となっているのが特徴である。
 太平洋戦争中に日産汽船が受け取った戦時標準船は、 次頁一覧表 (第2表) の通りM甲型特殊輸送船日向丸を始めとし、 A型船日祐丸など4隻、 K型日鉄丸など3隻、 C型日達丸、 D型日鶴(にっかく)丸など5隻、 E型日雀(にちじゃく)丸など17隻、 全部で31隻を数えるが、 表中の摘要欄記載の通り在来船全部と殆どの戦標船が戦禍で失われて、 僅か8隻だけが戦後に残存した。
 昭和18年2月から5月にかけて受け取った戦標船の、 日鉄丸、 日達丸、 日鶴丸、 日翼丸の4隻は、 建造途中で海軍艦政本部の命により、 応急改造油槽船に変更されて竣工し南方から内地への危険な原油一貫輸送に従事し、 4隻共米潜の雷撃で悲惨な最期を遂げている。
 次々と建造割り当てを受けた戦標船の命名には苦労のあとが見られ、 K型鉱石船は日鉱、 日鉄、 日鏡丸など 「金偏」 の船名、 D 型船は日鶴、 日翼、 日鳥(にちとり)、 日鵬丸と鳥に関係の船名で、 E型船では東京造船所の建造船は日雀、 日鵄(にっし)、 日鳩(にっきゅう)など 「鳥の名前」 を付け、 川南造船所の建造船は日松、 日梅、 日柏、 日楓など 「木の名前」 を、 三菱若松で建造の1隻には日若(にちわか)丸となって居り、 同19年10月以降には 「日祐丸」 を基に番号付けの船名に変わって居り、 第1日祐、 第2日祐丸はA型船に、 第4より第8日祐丸迄はE型船に命名されている。
 特記事項として平成6年9月1日に船舶部会 「横浜」 により編集・発行された 『船舶史稿・日産汽船』 (長澤文雄氏執筆) の中に、 『日海丸とほぼ同じサイズの日国丸、 日帝丸、 日運丸、 日南丸の4隻と平時標準船日達丸の6隻の船名は、 「帝国海運南に達す」 という南進の夢を担って命名されたという』 と船名由来の一端を紹介されている。
 なお日産汽船の社船々名中、 読み方が 『にち』 でなく、 『ひ』 で始まる船が、 日立(ひたち)、 日照(ひてる)、 日美(ひび)、 日張(ひばり)、 日向(ひうが)、 日義(ひよし)丸と6隻あるが、 その謂れは創業者久原房之介が明治38年に設立した日立鉱山に因んで命名の日立丸であり、 戦時中の陸軍特殊輸送船M甲型日向丸は陸軍の意向を汲んで、 肇国の聖地に因んで命名したと伝えられるが、 他の船の謂れは不詳である。
 太平洋戦争終戦後日産汽船の残存船は9隻あったが、 在来船は1隻もなく全部戦時標準船で、 2A型日丸と3D型第4日立丸以外は改E型ばかりで何れも粗雑な建造で、 その内の第6日祐丸は1週間後の8月23日に瀬戸内海平群島付近で、 米空軍投下の磁気機雷に触れ沈没して結局8隻が残存し、 船舶運営会の運航配船で石炭や食料などの輸送に従事した。
 終戦の翌21年7月に予て日本政府がマ司令部に申し入れていた、 小型客船の建造が許可となり、 更に22年9月には政府の第1次計画造船も許可され、 続いて翌23年5月に至りGHQのジヨンストン報告が公表されて、 次々と日本海運の再建政策がとられ日産汽船では昭和24年の第4次計画造船の適用を受け、 KB型日産丸を12月25日に完成し翌25年8月24日には、 戦標船2A型日丸を三島型に改造し船級工事を完了、 続いて12月5日第5次計画造船の日令丸を竣工したが、 同年4月1日の民営還元以後は着々と所有船の増強を実施して、 前頁一覧表 (第3表) の通り計画造船8隻、 自己資金船や購入船など計23隻を数えたが戦前の所有船と同様、 総ての社船には徹底して 「日」 を付けた船名の採用となっている。
 昭和38年7月30日に政府の 「海運業の再建整備措置法施行令」 が公布され、 運輸省の通達に基ずいて通称 「海運集約」 と言われた大改革が実施され、 日産汽船は10月31日に日本油槽船と合併して、 社名は昭和海運株式会社と決定され、 翌39年4月1日に新会社が設立となり、 全社員と15隻の社船が新会社に移籍して、 海運集約会社中核6社の一員となって新生会社・昭和海運として、 新しい希望に満ちた再出発となったのである。
                                                (この項終わり)
                                            (船舶企業 (株) 相談役)
所有船一覧表 PDF