鹿児島商船学校練習船                                    

            霧島丸殉職者53柱の御霊
                        『戦没船員の碑』 に奉安
                          平成16年5月13日        関東同窓会  水沼 清

船長 白浜重雄 ありし日の霧島丸

 平成16年5月13日、 霧島丸殉職者53柱の御霊は、 神奈川県三浦半島観音崎灯台近くの丘陵地に立つ 『戦没船員の碍』 に奉安されました。
 この碑は、 昭和46年3月25日に建立され、 第1回の追悼式には、 皇太子同妃両殿下 (現天皇・皇后両陛下) の御台臨を賜り、 その後も、 節目の追悼式には、 皇太子同妃両殿下や皇族方の御台臨を賜っています。 最近では平成12年の 『第30回戦没・殉職船員追悼会』 に雨の中を天皇皇后両陛下の行幸を賜りましました。
 今回は第34回の追悼式で新たに奉安された船員は、 戦没船員2柱・殉職船員85柱で、 この中に練習船 『霧島丸』 の53柱が含まれております。
 これにより、 この碑に奉安されている御霊は、 戦没船員6万6百7柱、 殉職船員2千8百21柱になります。
 この日鹿児島商船学校同窓会からは、 鹿児島本部から金田会長と野元事務局長、 東京支部からは、 内村支部長外9名の会員が臨席しました。

観音崎の潮騒に囲まれて立つ戦没船員の碑
大碑壁に続く中央壁
24米の高さをもって空に立ち昇り
南を指し示す大碑壁
祭場南端に低く水平に据えられた碑文石には、
『安らかに眠れ わが友よ 波静かなれ とこしえに』
の碑文が刻まれ、その中央に『戦没殉職船員名簿』が
奉安されている。

練習船霧島丸の遭難
(霧島丸の遭難・沈没に関する資料報告書等は多数あり詳細に記載されているが、 要点のみ整理して記載する。)
 昭和2年3月9日早朝、 千早教諭は、 校長室の扉を慌ただしくノックして、 1通の電報を正戸校長に示した。 霧島丸船長からの遭難第1報である。 『本日 08-00 推測位置北緯35度、 東経 142度20分に於て南風浪強きため引き返し、 犬吠岬に向け航行中』 とある。 校長は咄嵯に思った。 犬吠岬付近には適当な避難港はない。 『電見た。 土佐沖と能登沖に754ミリの低気圧が東に進行中につき、 至急萩の浜に引き返せ』 と返電して、 安否を気ずかいながら時計をみた。 10時03分である。 いまはしかし霧島丸からの電報を待つしかない。
 12時少し前。 校長は千早教諭のさし出す電文にじっと目を通した。 『暴風雨のため舵機を損じ、 難航続く、 至急、 救助手配こう』。 舵機故障、 これは一刻を争う、 正戸校長は直ちに行動に移った。
 そのころ銚子無線局では9日正午霧島丸から2回目の電報で 『本船位置北緯35度20分、 東経142度10分SOS北西に航行中』。 『SOS』 は数回繰り返されるものだが、 霧島丸からは、 なぜかただの1回だけしか発信して来なかった。 発電機の故障か、 重要部分の事故で通信不能に陥ったものと推測された。
 銚子無線局からは付近航行中の8隻の船に救助を求めたが、 暴風雨・激浪のため進行不能とのことで、 横須賀海軍鎮守府へ救助方依頼した。
 正戸校長は磯の多賀山に向かい知事官舎で鹿児島県知事松本学に懇願して、 知事名で、 海軍大臣と横須賀鎮守府指令長官宛に 『本県商船学校練習船霧島丸は、 本日午前8時北緯35度、 東経142度25分の地点に於て暴風雨に遭い難航に陥りたるため引き返し、 犬吠岬に向かう旨無電にて報告あり、 その後消息不明なりしが、 午後2時北緯25度20分、 東経142度10分、 犬吠岬をさる75海里の沖合にて難航に陥りたる情報あり、 本船には高級船員8名、 生徒30名、 下級船員15名乗り組みおり、 心痛に絶えず、 就いては此の際至急同方面に軍艦のご派遣を仰ぎ度く、 何卒ご配慮こう』 と打電した。 夜の11時を過ぎていた。

飛行機飛ばし、 船を出し:―
 10日朝、 千早教諭は横須賀鎮守府に向け、 伊藤教諭は銚子海岸局に向けて慌ただしく出発した。 その直後に横須賀鎮守府参謀長から、 『霧島丸救助のため駆逐艦一隻出動』 の入電あり。 更に県知事名で海軍大臣宛に飛行機での捜査を強く依頼した。 霞ヶ浦海軍航空隊からは飛行機一機を発進させ、 更に追浜航空隊からは飛行艇 F5 号を飛ばして遭難地点上空をくまなく捜索した。
 上京した松本知事と正戸校長は海軍大臣を訪問し、 懇切に今一度軍艦の捜査派遣方を依頼した。 大臣は二人の心労に慰労の言葉をおくり、 南洋方面に回航する予定の特務艦 『膠州』 による捜索を確約した。
 此のように、 遭難時に付近航行中の一般商船8隻はSOSを受信すると直ちに救助に向かうが、 暴風雨のため航行意の如くならず、 特に小樽丸は午後3時頃に至り 『船体一部を破損し、 浸水甚だしく、 遺憾ながら引き返す』 との電あり。
 次に第12札幌丸も現場に急行したが、 『激浪のため本船傾斜甚だしく引き返す』 と打電して来ている。 僅かに 『エンプレス・オブ・カナダ号』 が救助に向かっている。 がその成否は不明である。 航行中の船も最善を尽してくれた。
 海軍は、 駆逐艦2隻と更に特務艦1隻を派遺して捜索に全力を上げた。
 航空隊は霞ヶ浦から偵察機を、 追浜から海難救助用飛行艇を飛ばして捜索したが霧島丸の姿はなく、 船体付属物、 残骸の一片すら発見できなかった。

霧島丸捜索も新しい段階に:―
 3月16日に至り松本知事と正戸校長は、 霧島丸は既に絶望と思わざるをえない。 そこでこの上は、 せめて遺留品だけでも何とか取得したい。 その具体策として一つは新聞に漂流物の取得者にたいし懸賞広告を出すこと。 次に今まで通りに各方面に捜査依頼をすると同時に、 3,000屯級位の船を雇って、 徹底的に捜査することを決定した。
 逓信省横浜灯台所属船 『羅州丸』 の雇船が決定し、 千早教諭が同船に乗り組んで、 3月23日横浜を出港して捜索に向かった。 北緯34度45分、 東経142度23分のあたりから東に変針し、 ジグザグコースをたどり捜索を開始した。
 郵船会社情報 『リスボン丸からの無電によると、 本日午前9時20分、 犬吠岬より131度、 167海里の所に難破船の舷梯漂流を認む』 との入電あり。 千早教諭は竹中船長、 戸崎機関長と協議して、 午後7時に進路を南75度に反転して漂流舷梯の確認に向かった。 しかるに銚子測候所は 『本日742ミリの低気圧が銚子沖を通過せんとして、 海上波高し付近航行中の船舶は注意を要す』 と警報を発した。 27日、 波浪は甲板を洗い、 救命艇は破損し、 船の動揺は35度に達し、 機関室の排水意のごとくならず、 やむなく船首を北に向けて難を避けた。
 28日、 依然として波浪高く、 漂流地点に向かうこと困難を極めた。
 29日、 船長始め船員一向必死の捜索も空しく、 僅かに2、 3の漂流物を発見したが、 いずれも霧島丸の物ではなかった。 千早教諭は終日楼上に立って片時も双眼鏡を放さず、 疲労困憊に達していた。 正戸校長と千早教諭の羅州丸の更に1週間の延長を懇願したが、 灯台勤務の都合でこれは許されなかった。

東京高等商船学校練習船大成丸:―  文部省に依頼して、 捜索に出動。
山元回漕店の補助機関付帆船銭丸:―  傭船して捜索に出動。

 千早教諭と伊藤教諭は神戸に派遣して大成丸に乗組み、 4月9日に神戸を出港。 銭丸も同じく10日に神戸を出港して、 両船とも犬吠岬沖合の舷梯漂流地点に達した後、 付近1,000海里の海上を両船打ち合わせをしながら、 ジグザグコースで捜索を開始した。 大成丸は4月19日まで、 銭丸は5月1日まで、 乗組員一同全力を尽くして捜索に努めたが、 ついに霧島丸の遺品の一片だに発見することは出来ず、 4月22目恨みをのんで捜索本部を撤収した。
 遭難から40余日。 駆逐艦2隻、 特務艦1隻、 飛行機、 飛行艇、 捜索依頼船3隻それに付近航行中の船舶8隻の大捜索網にもかかわらず、 遂に霧島丸は一片の遺品もこの世に残さず53名の生命をのみこんだまま海の藻くずと消え去った。

霧島丸が残したものは:―
旧鹿児島商船学校跡
現鹿大水産学部キャンパスに建つ霧島丸記念碑
 これより前、 地方の商船学校の練習船は小型でしかも木造船のため遭難、 行方不明等の事故が相次いで発生していた。
 大正末期、 全国の公立商船学校は北は北海道から、 南の鹿児島まで、 11校あったが、 学校専用の練習船を所有していたのは、 5校のみであった。 すなはち函館商船の函館丸、 358総トン、 鳥羽商船のあまき丸、 300総トン、 広島商船の芸備丸、 195総トン、 大島商船の防長丸、 270総トン、 それに鹿児島商船の霧島丸、 997総トン以上5校がそれであった。
 当時の地方商船学校の練習船は、 過去にあったものも含めて皆小型・木造であったが、 それはまだあるから良い方で、 練習船のない学校は、 民間委託船で大きくても200総トン前後の所謂 『北前船』 に分乗するのがほとんどであった。
 霧島丸沈没以前に5隻の練習船が沈没又は行方不明となり、 この間練習生29名、 乗組員10名が尊い生命を失っており、 更に民問委託帆船に分乗した練習生からも多くの犠牲者を出していた。
 一方、 東京と神戸にあった高等商船学校にあっては、 それぞれ、 大成丸 (2,423総トン、 4本マスト、 パーク型、 補助機関付帆船) 、 進徳丸 (2,518総トン、 4本マスト、 バーカンタイン型、 補助機関付帆船) を有し、 整備された教育環境のもとで、 安全で効率的な、 系統立った実習訓練が行われていた。 このような状況の中で 『全国の公立商船学校の生徒にも大型帆船による実習を!』 と関係者の間に、 大型帆船練習船建造の願いが生まれていた。 特に多くの生命を失った西別丸、 防長丸の遭難は、 建造への悲願となって文部省を動かし、 専用の大型帆船により一括して行う事を計画し、 大正14年には2,500トン級の帆船2隻建造の予算化に努力したが、 時あたかも第1次世界大戦後の世界的大不況期にあり、 また公立商船学校関係者もいまひとつ力を結集することが出来ず、 悲願は実現しないまま昭和を迎えた。
 しかし昭和2年3月9日、 犬吠岬の沖遥か霧島丸53名の悲報は、 ひとり鹿児島商船学校だけでなく、 広く世人の耳目を驚かし、 更に全国に11校あった商船学校関係者が打って一丸となり、 団結して世論に訴え、 国会・政府に陳情した。
 大型帆船練習船建造の悲願は絶叫となって、 世論を動かし、 遂に翌昭和3年2月の第55帝国議会において、 練習船2隻の建造予算案187万 4,600円が昭和3年度及び4年度の継続費として認められたのである。

全国商船学校十一会の発足
(この項、 運輪省航海訓練所監修 練習船 日本丸・海王丸50年史より)
 霧島丸遭難を契機として 『練習船悲劇を繰り返すな』 の叫びは、 当時主として神戸にあった各商船学校同窓生クラブがばらばらに活動していたが、 ここに立ち上がり一致団結して世論を喚起し、 政治を動かして、 昭和大不況の最中にかかわらず成功をおさめたのである。
 地方に分散した弱い力も一致団緒すれば強い力になり世論を動かす事を、 地方商船学校出身者は貴重な犠牲を払って悟ったのである。
 昭和5年1月27日、 練習船 『日本丸』 が進水し、 2月14日には 『海王丸』 が進水した。 3月30日日本丸が竣工し、 5月19日海王丸が竣工した。 そして初めてここに全国11の公立商船学校座学修了生が一堂に会し、 大型帆船で整備された環境のもと、 系統立った航海訓練の第一歩を踏み出すことになる。
 昭和5年4月11日、 全国に11校あった公立商船学校卒業生が大同団結して、 『全国商船学校十一会』 を結成した。
 初代十一会理事長には粟島商船学校出身の池田友助氏、 主事には、 鹿児島商船学校航海科8期の北川 薫氏が就任して公立商船学校共通の間題、 即ち航海練習所 (現航海訓練所) の設置と運営、 および海技試験制度の改善、 再教育機関の設置等に積極的に取り組み活発な活動を展開することになったのである。
                                                   〈完〉