連載・随筆  第88回
             日本商船・船名考 (]]]]\)
                (太洋海運の部) 
                                   松井 邦夫 (全船協・相談役)   え・文とも

 わが国の近代海運発展史を読む時、 大正 3 年 7 月第 1 次世界大戦が勃発して同 8 年に終結する迄の 5 年間に、 わが国海運会社で新規創設或いは組織変更した会社が 30 社に及び、 同 3 年 12月の内田汽船に始まって翌 4 年の日本汽船、 5 年には 8 社・ 大正汽船、 松昌洋行、 原田汽船、 東和汽船、 互光商会、 勝田汽船、 帝国汽船, 辰馬汽船、 6 年には11社・ 山下汽船、 太洋海運、 嶋谷汽船、 沢山汽船、 神戸汽船、 組合汽船、 神港汽船、 日本海運、 東京海運、 日下部汽船、 浜根汽船、 7 年の 5 社・新田汽船、 栃木汽船、 三菱商事船舶部, 原商事、 飯野商事、 8 年には 4 社・ 太洋汽船、 川崎汽船、 国際汽船、 乾汽船が登記されたと記録されている。
 その中で大正 6 年 7 月に新設された太洋海運は創業者が特別の理想を持って創立した今迄にない形の海運会社で、 日本最初の純貨物船運航専業の先駆者と言われ、 創業者石田貞二と広田保の両人は日本海運百年の計に貢献しようとの大いなる熱意を示し、 昭和42年 8 月20日に刊行された 「太洋海運社史・50年の航跡」 の中に記載の理念を私考要約すれば 「目下の大戦景気に浮かれることなく、 続いて予想される戦後の海運列国による反動競合に備えて、 有利な機会を捉え海外輸送の航権を確立すべきで、 配船能力のない船社が単なる船舶所有者だけでは真の海運業者とは言えないと思う、 自ら配船運航して荷主の為に貨物輸送することこそ真の海運業者として国家に貢献出きる事と考え、 今後我々は海外で三国間輸送に進出し五大洋にわが太洋海運の社旗をひるがえさんと思う」 とその決意のほどが披瀝されている。
 創業者石田貞二は大正 6 年 6 月に31歳の時、 13年間勤務した三井物産船舶部を辞して独立を決意、 同社 桑 港 (サンフランシスコ)支店勤務時代から肝胆相照らした年来の盟友広田保と共に新会社を設立、 同時に以前三井物産で12年間勤務し大正 5 年に神戸で海運仲立業を開始した伊地知虎彦を誘い、 また廣田の親友伊藤長蔵も参加、 更に当時わが国の三大新興海運会社の一社として関西の社外船業界に勇名を馳せていた勝田汽船社長勝田銀次郎を相談役に迎え, 同年 7 月19日神戸で資本金百万円の太洋海運株式会社を創立し、 会社々長は空席のまま石田と広田が共に代表権のある常務取締役となったが、 総てに関し勝田相談役の影響が大であったろうと思われるのである。
 太洋海運は発足当初は 1 隻の所有船も持たずに総て傭船による配船運航を実施し、 大正 6 年11月迄の第 1 期決算の時には13隻 7 万 7 千余総トンの傭船を運航、 主として日本・北米、 インド・北米間の定期貨物船として就航させ、 続いて第 2 期には新たに傭船した23隻を加えて合計36隻 21万トンを擁し、 極東の 星 港(シンガポール)、 マニラ、 香港から北米への新航路を開設、 更に日本・南洋線と日本・豪州線も新設した。
続く第 3 期となり経営上自社船保有の必要に迫られて初期の方針を修正、 同 7 年 6 月24日に河内商会から社船第 1 号梅丸を購入し、 傭船 36隻と共に配船運航して新規大連・シアトル航路を開始したが同期間中、 更に日米船鉄交換契約の対米提供船 7 隻の委託を受け北米向けに配船、 続く第 4 期中の 7 年11月に小樽の佐藤商店から自社船第 2 号の第一厚田丸を購入した。
 翌 8 年 4 月30日の決算期末には社船 2 隻、 傭船23隻、 扱船 7 隻の外、 太洋汽船の所属船 2 隻を加え合計34隻21万 7 千余総トンを運航する迄に発展し、 範囲も北米、 豪州、 南洋方面ほか欧州と地中海航路にも進出、 当時の新興海運会社の雄と称されていた。
 第 4 期中の太洋汽船とは、 太洋海運の設立当初から絶大な協力を得ていた勝田汽船と共同出資により同 8 年 1 月17日設立した合弁会社で、 勝田銀次郎が社長となり次々新造貨物船を建造し太洋海運の扱船として運航、 最初の計画では当時建造中の新造船 8 隻により新規に世界一周航路を開設する大構想が立てられていた。
 然し乍ら世界大戦の終結によって海運市況が急変し配船が困難となり計画中止が余儀なくされ、 新造船の一部は他社に貸船する事となり、 翌9年の経済界不振は益々深刻となり株式の大暴落も伴って海運界も大恐慌を迎えたが、 太洋汽船の経営は勝田汽船が担当し社船の運航はそのまま太洋海運の扱船として継続された。
 大正 9 年には社船 2 隻、 傭船は白鹿丸ほか22隻により、 主として欧州、 北米、 南米、 豪州などに配船し大戦後の厳しい反動市況を乗り切ったが、 その間 9 年 4 月に船齢37歳の老朽船第一厚田丸を処分して 8 月に神武丸を社船に加え, 翌10年 9 月26日政府委託の獨乙賠償船光文丸を受け取り、 続いて11年 2 月洋仁丸、 3 月に敬義丸、 12年 8 月大有丸、 13年 3 月に大慶丸と計 6 隻を船列に加えて船隊を整備、 傭船数を極力減らして船費や社費の削減を実施した。
 関東大震災の翌13年に日本政府復興院が資材の大量買付けを実施、 北米材や穀類等の輸送が活況となり、 太洋海運では当時外国船の長期傭船が 6 隻にも及んだと記録あり,以前に設立された傍系会社大華汽船、 日出汽船、 朝日汽船の所有船も前頁一覧表の通り準社船として扱われ, 同 15年 8 月には以前から密接な関係の下村汽船の 2 隻も加え一挙に船隊の整備が行なわれ、 その時社船と内外傭船併せて12隻が北米材の専属輸送に就航したが、 社船洋仁丸は毎航他船より優秀な成績を上げたと特記されている。
 前述の通り太洋海運設立の主旨は、 元来自社船を持たず傭船を主体に配船運航する方針であったが、 その後に数社の傍系会社や系列会社を設立してその所有船を裸傭船し、 必要に応じて準社船扱で運航、 その船名は所有船一覧表に見る様に戦前、 戦中、 戦後を通じ 「大」 と 「洋」 の字が頭に付いた船名となって居り、 その由来に関する記述は社史の中には見当たらず方々手を尽くしたが不明で、 以前同社で活躍の先輩古老の話によれば 「太洋海運の社名[太]と 「洋」 の字に因み命名されたと聞き、 「太」 は 「大」 を使ったのが特徴である。」 との事であった。
 大正15年 1 月大阪鉄工所の下村耕次郎専務が退職し、 予ねて興味を持っていた海運経営を志して同年 8 月 1 日下村汽船を設立したが、 単に船舶を所有するだけで運航業務は一切太洋海運に委託されたのである。
 大正 15 年末に至り太洋海運創立以来、 共同経営で成果を上げてきた石田、 広田両常務の間に経営、 人事、 株式などの問題で意見が対立し、 永年お互いに長短相補って協力してきた仲に破綻が生じ、 昭和 3 年 7 月遂に和解成らず広田常務以下 6 名が辞任退社し、 世界的な経済不況の中で社業の一大危機を迎えたが、 石田常務は勝田相談役始め伊地知、 伊藤両取締役の協力で陣容を立て直し難局に対処出来たのである。
 昭和 5 年 8 月山下汽船の内紛の時、 田中正之輔常務が同志10数名を連れて退社、 以前から太洋海運石田常務の経営理念に共鳴していた事から、 改めて提携し同年12月24日に資本折半の運航専業会社大同海運が創設され、 太洋海運の所属船 8 隻総てと傭船全部を委託運航に提供し、 太洋海運は純船主業務に移行したのである。
 同社設立と同時に即日営業が開始されて業界の大きな話題となり、 その後一隻船主なども糾合して裸傭船や委託を受け船主関係の修繕、 保険、 船員配乗、 船用品補給等の船主業務一切を太洋海運が代行処理したのである。
 昭和初期の大恐慌不況時代には各社とも夫々繋船などの苦難もあったが、 同 6 年 9 月18日に満州事変が勃発し、 翌 7 年初頭から満州大豆や北洋材の市況が著しく好転して遠洋航路の配船が活発となり、 併せて日本政府の船質改善助成施設が同年 9 月 2 日閣議決定されて翌10月 2 日実施、 これを契機として海運界は徐々に回復の兆しとなり、 続く 8 年、 9 年の海運業界は順調な推移となり、 大同海運は石田貞二専務、 田中正之輔常務のコンビで経営され、 同 8 年 5 月に太平洋定期航路、 翌 9 年 7 月には紐育定期航路を開設して好調な伸展を謳歌した。
その間昭和 7 年 5 月に大阪汽船、 同11月に高千穂商船、 翌 8 年には三和商船を設立し運航は大同海運で、 船主代行は太洋海運が行ない、 更に11年12月21日には出光商会及び大同海運と提携して昭和タンカーを設立したが、 同社は後年の昭和13年11月に当時日本最大の油槽船 日章丸を建造したのである。
 昭和12年 2 月21日太洋海運の創業者石田常務が糖尿病の急変悪化により49歳の若さで志半ばにして逝去され、 後任は伊地知虎彦と石田松太郎が常務 2 人制を踏襲して18年間の社業を継承し太平洋戦争中まで続けられたが、 異彩な経営者と言われた石田常務の死は各業界から惜しまれ乍ら、 葬儀は太洋海運と大同海運の合同社葬として盛大に営まれた。
 石田常務の没後大同海運との関係が急速に冷却して崩壊、 石田常務の理想は空しく消滅し、 再び太洋海運は旧体制に戻って経営されたが, その後戦時中昭和18年船舶運営会の改組編成強化の時に辰馬汽船の傘下に加入となった。
 大戦中の昭和18年 2 月 1 日に提携関係会社の下村汽船と合併し、 同社下村健一社長が太洋海運の新社長となり、 以来戦中戦後を通じて激動の過渡期を温厚篤実な人柄で信望を集め、 特に戦後の計画造船の応募には第 2 次から23次に至るまで11隻を獲得し、 更に自己資金船 2 隻を建造しその手腕が高く評価され社業の伸展と、 日本船主協会副会長その他の要職に就かれて業界に尽くされた業績は数知れない。
 太平洋戦争中に建造された 2 隻の企画新造船と、 戦時標準型船 6 隻にも総て従来の命名方式が踏襲され、 更に戦後の昭和22年 4 月に公布された船舶公団法による政府計画造船の新造船でも、 3 隻の共有船以外の10隻全部が 「大」 の字付きの船名となっているのである。
 戦後の民営還元以来太洋海運は川崎汽船との密接な関係が生じ、 以後昭和38年12月20日政府の海運再建整備法の集約再編では川崎汽船の専属オーナー会社となり現在に至っているが、 多大な功績を残された下村健一社長は、 昭和33年10月27日に57歳で逝去されている。
                                                (この項終わり)
                                          (船舶企業 (株) 相談役)




   太洋海運株式会社    所有船一覧表 (社船・準社船・委託船)   
                                           (創立より終戦時まで)
船 名
(旧船名)
総トン数
速力 KTS
建造年月日・
場所
備   考
うめ
梅   丸
(シャバ号)
4,232 
(レシプロ)
1892 年 (明 25)
英 国
大 7. 6.24 受取
大 15.3.27 解体
あつ た
第 1 厚田 丸
(ナープタ号)
3,130 
(レシプロ)
1883 年 (明 16)
英 国
大 7.11 受取
大 9. 4 解体
じんむ
神 武 丸
(インドラーニ号)
5,168 
(レシプロ)
1894 年 (明 27)
英 国
大 9.8.23 受取
昭 2.7 売船
こうぶん
光 文 丸
(ピーレフェルト号)
5,157 
(レシプロ)
1898 年 (明 31)
独 乙
大 10.9.26 (独乙賠償船) 受取
昭 3. 5. 1 政府へ返還
ようじん
洋 仁 丸
(タクチシアン号)
7,164 
(レシプロ)
1900 年 (明 33)
英 国
大 11. 2  受取 (大華汽船)
昭 5. 8.2 解体
けいき
敬 義 丸
(マジシャン号)
5,187 
(レシプロ)
1896 年 (明 29)
英 国
大 11.3 受取 (日出汽船)
大 12.3 アリナ島で坐礁沈没
たいゆう
大 有 丸
(バンカ号)
6,217 
(レシプロ)
1900 年 (明 33)
英 国
大 12.8.16 受取 (日出汽船)
昭 5. 8. 2 解体
たいけい
大 慶 丸
(カジナ号)
2,791 
(レシプロ)
1897 年 (明 30)
英 国
大 13.3. 9 受取 (朝日汽船)
大 15.7.13 解体
たいげん
大 元 丸
(ルイス・ニルソン号)
5,665 
(タービン)
1916 年 (大 5)
米 国
大 15.8.12 受取 (下村汽船)
昭 17. 5. 6 東支那海で被雷沈没
たいあん
大 安 丸
(ハンナ・ニルソン号)
5,655 
(タービン)
1916 年 (大 5)
米 国
大 15. 8.17 受取 (下村汽船)
昭 18.10. 8 バシー海峡で被雷沈没
たいじん
大 仁 丸
(ハルフリート号)
5,154 
(ディーゼル)
1922 年 (大11)
和 蘭
昭 3.10. 8 受取 (下村汽船)
昭 19. 2.20 八重山列島沖で被雷沈没
ふくこう
復 興 丸
3,834 
(ディーゼル)
大 13.12.25
播磨造船
昭 4. 1. 7 受取 (神戸製鋼所)
昭 19. 5.17 サイパン島附近で被雷沈没
たいぶん
大 文 丸
(えとな丸)
6,581 
(レシプロ)
大9.5
大阪鉄工所
昭 4. 2.23 受取 (下村汽船)
昭 18. 8.30 北海道恵山沖で被雷沈没
たいげん
第 3 大源丸
5,255 
(レシプロ)
1908 年 (明 41)
英 国
昭 4.11.15 受取 (名村汽船)
昭 19. 2.26 南方海域で被雷沈没
あさま
浅 間 丸
(インベリエ号)
4,891 
(レシプロ)
1901 年 (明 34)
英 国
昭 8.11.16 受取 (三和商船)
昭 18. 1.26 釧路港外で坐礁沈没
てんしん
天 晨 丸
(ヨンクファ号)
4,236 
(レシプロ)
1918 年 (大 7)
カナダ
昭 9.10  受取 (瑞光商船)
昭 19.10.24 バシー海峡で被雷沈没
たいへい
太 平 丸
6,284 
(ディーゼル)
昭 3.9.30
三井玉
昭 11.12.28 受取 (嶋谷汽船)
昭 19. 7. 9 北千島で被雷沈没
むじゃ
無   恙 
3,069
(レシプロ)
(中国抑留船) 昭 12.10.12 受取 (陸軍委託)
昭 15. 6. 2 東亜海運へ引渡
じゅんぽう
順   豊
4,775 1911 年
(中国抑留船)
昭 12.10.13 受取 (陸軍委託)
昭 17. 6. 1 現地で軍に返船
しんたいへい
新 太 平
3,174 (中国抑留船) 昭 12.10.16 受取 (陸軍委託)
昭 13.10.21 伊豆大島で坐礁沈没
かいしょう
海   翊
不 詳 (中国抑留船) 昭 12.10.19 受取 (陸軍委託)
昭 14. 2.20 巨文島で坐礁、 沈没
たいりく
大   陸
2,325 (中国抑留船) 昭 13. 2. 4 受取 (陸軍委託)
昭 17. 6. 1 現地で軍に返船
こうざん
嵩   山
3,710 (中国抑留船) 昭 13. 4. 7 受取 (陸軍委託)
昭 13.12.17 上海で軍に返船
はるおか
治 岡 丸
(キンタ号)
1,219 
(客 船)
1907 年
(中国拿捕船)
昭 18. 2.20 受取 (陸軍委託)
昭 20. 8.10 現地で軍に返船
けようえい
曉 栄 丸
(アポイ号)
2,790 1895 年・英国
(中国拿捕船)
昭 18. 5.19 受取 (陸軍委託)
昭 19. 1.14 海南島沖で被爆沈没
たいりん
大 倫 丸
1,915 昭 16.10.16
川南造船
(新造船)
昭 18.10.18 パラオからバウル向航海中被雷沈没
たいこう
大 功 丸
896 昭 17.3.23
三光造船
(新造船)
昭 19.7.4 小笠原島附近で被爆沈没
たいれつ
大 烈 丸
873 
(2E 型)
昭 19.5.31
川南造船
(新造戦標型) 神戸港で被爆損傷の侭戦後に残存
昭 20.9.18 台風で被災沈没
たいけん
大 建 丸
2,200 
(2 D 型)
昭 19.6.9
佐野安船渠
(新造戦標型)
昭 20.3.1 宮古島附近で被爆沈没
たいしゅん
大 俊 丸
2,857 
(C型)
昭 19.9.21
名古屋造船
(新造戦標型)
昭 20.8.10 北鮮清津港で被爆沈没
たいせい
大 征 丸
884 
(2E型)
昭 19.10.6
三菱若松
(新造戦標型)
昭 20.7.14 北海道松前沖で被爆沈没
たいきゅう
大 久 丸
6,872 
(2A型)
昭 20.1.5
川南造船
(新造戦標型) 戦後に残存
昭 34.3.3 橋本汽船に売船
ようずい
洋 瑞 丸
2,335 
(2D型)
昭 20.2.15
佐野安船渠
(新造戦標型) 戦後に残存
昭 31.10.1 佐藤国汽船に売船
合計 33 隻  126,495 GT
(内 訳)
在来国内建造船 3 隻、 海外買船 13 隻、 政府委託船 1 隻陸軍抑留・拿捕委託 8 隻、
計画型 2 隻、 戦標型 6 隻

戦後の政府計画造船による  太洋海運建造船一覧表

船 名
(旧船名)
総トン数
速力 KTS
建造年月日・
場所
備   考
大 永 丸 2,223 
(レシプロ)
昭 23.12.15
日立造船因島
(第 2 次計画造船)
大仁丸 (U) 2,460 
(レシプロ)
昭 24.7.31
日立造船因島
(第 4 次計画造船)
昭 41.4.13 韓国船主へ売船
大文丸 (U) 4,027 
(タービン)
昭 25.11.13
日立造船向島
(第 5 次計画造船)
昭 40.11.16 韓国船主へ売船
大元丸 (U) 6,600 
(ディーゼル)
昭 26.11.28
日立造船向島
(第 6 次計画造船)
大有丸 (U) 6,559 
(ディーゼル)
昭 28.4.24
日立造船因島
(第 8 次計画造船)
大安丸 (U) 6,548 
(ディーゼル)
昭 30.6.1
日立造船因島
(第 10 次計画造船)
大 天 丸 8,764 
(ディーゼル)
昭32.5.10
日立造船因島
(第12次計画造船)
大 向 丸 4,882 
(ディーゼル)
昭 33.2.18
日立造船向島
(自己資金建造船)
大久丸 (U) 8,739 
(ディーゼル)
昭 35.8.1
日立造船因島
(第15次計画造船)
大 井 川 丸 61,564 
(ディーゼル)
昭 39.12.28
日立造船因島
(第20次計画造船)
川崎汽船と共有
大文丸 (V) 3,449 
(ディーゼル)
昭 41.6.25
日立造船向島
(自己資金建造船)
ほんじゅらす丸 9,089 
(ディーゼル)
昭 41.12.18
日立造船向島
(第22次計画造船)
川崎汽船と共有
にからが丸 9,000予 
(ディーゼル)
昭 42.8.20予
日立造船向島
(第23次計画造船)
川崎造船と共有
合計 13 隻   133,904 GT   (207,694 DWT)
計画造船   8 隻45,920 GT   自己資金船  2 隻8,331 GT   共有計画造船 3 隻79,653 GT