みなと散歩       (第3回)
                        −神戸港−
                                            神戸支部長 東   功


 2003年夏季号 (93号) に続いて、 神戸港開港と共に開設された旧外国人居留地の周辺やエリヤ内を散策し、 史跡や碑を紹介したいと思います。

◇神戸外国人居留地跡の碑・銘板(T)(U)(V)
 JR三宮駅西口から南へフラワーロード沿いに約400mの所に花時計公園と神戸市庁舎がある。 公園の西の南北道路を隔ててシェルGSがあり、 そのコーナーに碑 (T) がある。
 この地は旧居留地の北東端で碑には、 「この地より南西一帯にかけて、 外国人居留地が開港と共に設置され、 英国人技師ジョン・ウイリアム・ハート (1836年〜1900年) により、 整然とした都市計画がたてられ、 美しい街並みが形成された。」 とある。
 計画図 (PLAN OF THE FOREIGN SETTLEMENT OF KOBE) の銘板が併設されている。
 この地点から西への道が居留地北側の境界で旧西国街道・現在は花時計線と名が付いているが当時は裏町通りと呼ばれたようである。
 この道路に沿って500m、 その間5本道路を越して行くと、 大丸デパートの北西側玄関前に出る。 (JR元町駅東口から鯉川筋沿いに南へ約200m元町商店街入口の向い側) その先の花壇の中に碑 (U) があり、 この辺りが42番の跡地になる。
 この碑から鯉川筋を南へ約300m行くと海岸通 (国道2号線) と交わる。 この角の敷地には兵庫県農業会館がたっていて、 その南西コーナーに旧居留地1番の銘板 (V) が設置されている。

◇アメリカ領事館の銘板
 旧居留地1番から道路を隔てた西側正面の郵船ビル南東壁にこの銘板が設置されている。
 銘板には英文と和文で、 「ON THIS SITE IN JULY 1868 WAS ESTABLISHED THE FIRST AMERICAN CONSULATE IN KOBE」と「1868年 (明治元年)7月この場所において神戸で最初のアメリカ領事館が開設されました」 と刻されている。
 1868年の開港当時、 神戸には第一から第四までの波止場があり、 その第二波止場の入口 (神戸村海浜・現海岸通一丁目の庄屋で居留地築造の工事を請け負ったといわれる、 生島四郎太夫の持ち家を仮事務所にした) にアメリカ領事館が出来たことから、 この第二波止場が通称アメリカ領事館前波止場と呼ばれ、 後にそれが訛って 「メリケン波止場」 と称されるようになったようだ。

◇神戸税関発祥の地
 旧居留地1番から東に向かって進むと、 震災の被害を受けたが、 今は修復されている大正時代に建設されたレトロな 「海岸ビル」 や 「商船ビル」 があって、 さらに東へ歩を進め5本目の南北道路に出る。 この道路を隔てた角地にこの碑がある。
 碑の側面に 「この地に開港当時神戸運上所があった」 と刻してある。 居留地の南東端は神戸運上所の敷地との関係で12番と122番の二つの角地がある。



◇居留地124番の碑
 旧居留地122番が東の端で南北道路東町筋に面している。 そこから少し北に当時の建物の赤レンガ造りの通用門の一部が保存されている。
 ここから更に北に進むと居留地最終番地126番を経て北東端95番に到着、 旧居留地外周をひと廻りしたことになる。
<外国人居留地>―外国との通商交易の開港に基づいて設定された外国人の自由な居住の地である。 安政5年 (1858年) になって新たに日米修好通商条約が締結され、 その年の内にオランダ、 ロシヤ、 イギリス、 フランスとの間でも条約が交わされた。 謂ゆる安政5カ国条約による6港開港協定で居留地が建設された。  
 神戸では、 慶応3年 (1868年) 兵庫開港に関連して長崎、 横浜、 函館より遅れて設けられた。
 その地域は、 旧生田川尻 (現在の東遊園地付近) から鯉川尻 (メリケンパークの入口付近) の間で北の境界は三宮神社前を通る旧西国街道までの海岸沿いの一帯でイギリス人土木技師ジョン・ウイリアム・ハートと初代兵庫県知事の伊藤博文の主導により西欧的な都市計画がそのまま実現した。 域内は126の区画に整然と分けられ車道や歩道、 ガス灯、 下水道が施設された、 当時としては最先端都市で域内は治外法権が認められていた。 いわば、 小さな外国であった。
 エリヤの面積は約25.6ヘクタールで, 東西5本、 南北8本の道路により碁盤目状に街区割りされた。 街区形態や地番なども当初からのものが今でも残っており、 東町、 西町、 中町、 前町、 海岸通などは居留地内の位置によるもので、 江戸町、 京町、 浪花町、 明石町、 *播磨町は当時の東西の有名地名からであり、 唯一独特な伊藤町は伊藤博文から来ていると言う。 (*は租借解消後に名づけられた)
 神戸港での交易が盛んになるにつれエリヤ内では深刻な住宅不足となり、 明治政府は治外法権のエリヤを拡大することなく、 新たに東は生田川 (水害防止の為明治4年に現在の位置に付け替えられた) から宇治川 (川尻は現在のハーバーランドの東端の弁天町付近) の間で海辺から山の手まで日本人と外国人の雑居が認められ、 明治20年 (1887年) 頃から山の手に宅地を求める外国人が多くなった。 異人館で名高い山本通りや北野通りはその名残である。
 大丸デパートの北東端から三宮神社の横を北へ走るエキゾチックな街並みで有名なトアロードは居留地と山手居住地を往来するために造られたもので、 当初は三宮神社に因んで三宮筋と呼ばれていたという。
 その後、 明治32年 (1899年) の条約改正で租借が解消され居留地ではなくなり、 日本人が入り込めるようになり神戸のビジネスの中心地となった。

◇居留地の異人館・15番館
 場所は市立博物館の西の浪花町筋で、 最初、 明治14年 (1881年) に建てられ、 アメリカ領事館として使用されていた。 建物はコロニアルスタイルでエリヤ内で唯一当時の面影をとどめている。
 平成元年に国の重要文化財に指定され復元改修されたが、平成7年の阪神・淡路大震災で全壊、 平成10年に再び復元されて今日に至っている。
 現在、 建物の内部がレストランとして公開されている。

◇旧神戸外国人居留地の下水道
 15番館の東隣にその遺構がある。 居留地の下水道は神戸付近で焼かれたレンガを用い円形管と卵型管が南北道路に沿って6本・1880mが施設され、 明治5年 (1872年) ごろ完成した。
 近代下水道としては日本で一番古いもので、 現在でもその一部が下水道の雨水幹線として使われている。


◇旧居留地の瓦斯灯
 明治7年ごろわが国で最も古いものに数えられる瓦斯灯が街灯として建てられた。
 この瓦斯灯は居留地当時の歴史をかもしだすために、 平成元年8月に神戸市100年を記念して京町筋に一基設置されたものである。









◇宮城道雄生誕の地碑
 15番館のある浪花筋を北に進み銀行のある四つ角を過ぎると琴の音が聞こえてくる、 音に向かって行くとビルの周りの植え込みの中にこの碑がある。
 箏曲家である彼がこの地58番館で明治27年に生誕。 後にフランスのバイオリニスト 「ルネ・シュメー」 との合奏による 「春の海」 のレコードで世界的な名声を得る。
 碑には譜面も刻まれており、 午前9時から午後5時までの間 「春の海」 の演奏が流れている。

◇光の祭典ルミナリエ
 平成7年の震災後、 復興への希望を託した、 光の芸術と言えるルミナリエがこの町を彩る。
 大丸デパートのすぐ南の道路、 仲町通りと東遊園地が会場で、 多くの市民や観光客が訪れ、 道路は歩行専用で一方通行となるが、 溢れんばかりの人・人・人・・。 いまや年末の神戸の風物詩になっているが、 資金面でその存続が危ぶまれているようだ。

 おわりに、 今回神戸市街図をたよりに旧居留地の周辺、 エリヤ内の縦横の道路を悉に歩いてみて、 数多くの記念碑などに出会い、 今まではそれに気づくことなく、 ただ漫然と歩いていたのだと痛感すると共に歴史の一端に触れ、 その昔に思いを馳せ、 なんとなく湧々する気分です。
                                     (参考引用資料:兵庫県大百科事典)