鹿児島商船同窓会の念願叶い
            練習船霧島丸殉職者の御霊
                       戦没船員の碑に奉安される

 3月12日、 鹿児島商船学校同窓会 金田光蔵会長より本協会 川村会長宛に、 練習船霧島丸殉職者の奉安について次の要請文が、 遭難と殉職の状況、 霧島丸殉職者名簿、 殉職者遺族名簿と共に届けられた。

練習船霧島丸殉職者の奉安のお願いについて
                                       鹿児島商船学校同窓会 
                                           会長 金田光蔵
 謹啓 貴職はじめ関係の皆様におかれましては、 ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。 常日頃から当同窓会については多大なご配慮を賜り、 感謝いたしております。
 早速ですが、 貴職におかれましては 「海難殉職関係者」 の顕彰の件につきまして、 一昨年から関係先に多大なご配慮を賜っていたことをお伺いし、 深く敬意を表するものであります。
 霧島丸殉職者のことにつきましては、 昭和21年3月鹿児島商船学校廃校の後は、 鹿児島大学水産学部内にある霧島丸記念碑前において、 同窓会発足以来魚水会 (水産学部同窓会) と共に慰霊祭を行い、 50回慰霊祭、 70年祭と同窓会総会前の行事となっておりましたが、 その後も私共の心から離れることのない霧島丸殉職者のことであります。 私共の同窓会の今後を考えますとき願ってもない時期に 「戦没船員の碑」 への奉安のことをお伺いし、 まことに幸運と存じているところであります。
 つきましては、 標記の件について、 練習船霧島丸殉職者53名の遭難と殉職の状況、 職、 氏名、 年齢、 原籍等関係資料並びに現在判明している遺族名簿を別添のとおり提出いたしますので、 「戦没船員の碑」 への奉安の件、 特段のご高配を賜りますようお願い申し上げる次第です。
 何卒よろしくお願いいたします。    敬具


 当時、 商船学校練習船の大型海難として世間を驚愕させた霧島丸遭難と殉職の状況については、 添付の状況報告に 「碑文」 と共に詳細が記されているが、 本協会の 「五十年史 (29〜30頁)」 には次の通り悲惨な歴史として掲載されている。 (以下、 50年史より抜粋)

鹿児島商船学校練習船・霧島丸の遭難

 霧島丸 (997G/T、 4檣バーカン・タイン型木造帆船) が福岡県西戸崎港で、 海軍用の石炭1,050トンを積んで、 同港を出帆したのは、 昭和2年 (1927) 2月13日の夕刻である。 行先は、 海軍基地のあるマーシャル群島であった。
 本船は2月27日、 静岡県の下田港で飲料水などの補給をして天候の回復を待ち、 3月7日正午同港を出帆した。 だが、 3月9日の早朝ごろから、 たまたま北上中の台風に遭遇、 避難するいとまもなくSOSを打電したまま消息を絶っている。
 当時本船には、 白濱船長以下23名 (職員8名、 部員15名) の乗組員と30名の実習生が乗組んでいたが、 その後大がかりな捜索にもかかわらず、 その安否さえつかめず、 したがって、 全員殉職したものと判断された。
 この捜索は学校当局の要請によって3月10日から5月1日まで、 大成丸 (東京高等商船学校練習船)、 羅州丸 (逓信省所属海底電線敷設船) 、 錬丸 (帆船・民間船)、 特務艦 (海軍) 、 飛行機 (陸軍) などによって行われたが、 遂に遺体は勿論のこと船体の破片さえ発見することはできなかった。
 霧島丸が遭難したと思われる地点は北緯35度、 東経142度20分 (犬吠崎の南東約85浬) だが、 当時この付近には、 カナダ汽船会社のエンプレス・オブ・カナダ号、 小樽丸、 第12札幌丸などがいたが、 3月9日午後7時40分、 銚子無線局が鹿児島郵便局を通じた学校当局への通報によると、 「付近航行中の汽船、 救助に向かわんとするも暴風雨のため進航不能につき、 横須賀鎮守府へ救助方、 通知せり。 霧島丸はその後、 無線発信不能となりたるものの如く、 状態不明」 ということであった。
 3月9日午後10時、 学校当局は海軍大臣及び横須賀鎮守府長官あて、 県知事名で至急軍艦派遣救助依頼を打電すると同時に、 一方では文部省実業学務局長へ遭難報告並びに救助方を打電した。 その結果は前にふれたとおりであるが、 当時大成丸に乗ってこの捜索に参加した東京高等商船学校の千早教授は、 心情あふれる次の歌を残している。
  ○ 飛ぶ鳥におのが心を通はせて
          隈なく尋ねん青海原を
  ○ 今日もまた檣マストの上に見張れども
          手がかりなきぞ吾が涙かな
 ちなみに、 昭和4年 (1929) 6月、 校庭に、 霧島丸殉職者の功績を永く伝えるために、 霧島丸記念碑 (香川県産の奄治石) が建立された。 題字は元帥伯爵 東郷平八郎閣下、 碑文は鹿児島県立第一高等女学校教諭 小松文雄氏。 また昭和5年5月には、 職員・生徒の図書閲覧及び父兄・卒業生などの宿泊に供する目的で、 霧島丸記念館が、 同記念碑の近くに建てられた。


 ここで、 財団法人・日本殉職船員顕彰会・諸事業に関する最近の状況について報告する。
 平成13年に入った頃から、 国家教育機関に係る独立行政法人化移行の課題などに関連して、 商船教育機関についても取り巻く環境の変化が予測される事態となってきた。 これを受けて、 今のうちに一般職業船員の枠を超えて練習船乗組員並びに実習生、 更に汽船実習中の殉職者等についても顕彰会の奉安者名簿に追加表記して戴こうという気運が盛り上がってきた。 本会もこの趣旨に賛同し関係各位と共に積極的に活動を進め、 平成14年3月には各商船高専・校長宛に会長名による 「貴校海難殉職関係者の顕彰について」 を出状し、 各学校ご賛同が得られるなら商船高専関係殉職者の御霊を奉安するための顕彰会への要請や諸手続き等のお手伝いをする用意がある旨を伝えた。
 平成14年度に入って日本殉職船員顕彰会では、 10月29日開催の理事会に諮った上でこれらの要望に沿って事業活動を進めることを決定、 この結果新たに163名の殉職者を奉安して頂いた。 この中には先の呼びかけに応えて鳥羽商船高専から提示された3名の殉職者の方を始め、 磯風丸の名簿などに商船高専関係者が含まれていることが予測されるので、 会長より商船高専各校長に対して 「海難殉職関係者の顕彰について (ご報告)」 を出状し経過を報告すると共に、 類似する殉職者については今後とも奉安して頂くよう要望していることを伝えたところである。
 この新たな殉職者の追加奉安などにより平成15年末における顕彰会奉安者名簿に記載されている御霊は、 60,600人余の戦没船員と2,730余名の殉職船員となっている。

 その後、 鹿児島商船学校同窓会の有志から同校の練習船霧島丸殉職者の奉安について問い合わせがあった。 それによると、 金田会長の要請文にある通り昭和21年3月の廃校後は、 鹿児島大学水産学部内にある霧島丸記念碑に奉安・慰霊されてきており、 廃校に伴って在校生徒全員を受け入れた大島商船学校 (当時) に霧島丸遭難の歴史が引き継がれたのではなく、 鹿児島商船学校同窓会によって慰霊等の諸行事が継続されてきたのであった。
 金田会長の願望は、 それらの経緯と現状に照らし合わせ、 極めて切実なものである。 よって、 川村会長は3月16日、 日本殉職船員顕彰会・相浦紀一郎会長宛に 「練習船霧島丸殉職者の奉安のお願いについて」 を出状し、 同窓会の今後を考えた場合、 この機会に是非とも戦没船員の碑に奉安願いたいと心より要望した。
 顕彰会では直ちに内部検討を進められ、 その結果、 相浦会長名をもって、 3月19日付で次の通り丁重なご回答文を届けられた。

謹啓 時下ますますご清祥の段お慶び申し上げます。
 平素は、 幣協会の事業運営につきましてご支援ご協力を賜り心から厚く御礼申し上げます。
 さて、 貴会より全船協15-040にてご依頼のありました、 練習船霧島丸殉職者の奉安につきましては、 昨年奉安致しました商船教育機関練習船関係殉職者に準じ、 ご芳名を浄書し 「戦没船員の碑碑文石」 内に奉安させて頂きたく、 ここに謹んでご報告させて頂きます。
 なお、 奉安は、 平成15年の殉職船員の奉安と合わせ、 第34回戦没・殉職船員追悼式前の吉日を選んで行わせて頂きます。  
 また、 霧島丸殉職者慰霊の母体となっている 「鹿児島商船学校同窓会」 様には、 幣会の関係者名簿にとどめさせて頂き、 追悼式のご案内や広報誌 「潮騒」 等の刊行物をご送付させて頂きたいと思っております。
 以上、 取り合えずご連絡申し上げます。  
                                                         謹白

 このような経過を経て、 練習船霧島丸の遭難殉職者53柱の御霊は、 日本の海の玄関口である東京湾を一望できる神奈川県観音崎公園内の丘陵地 (標高60m、 敷地4,288u) に、 昭和46年に建立された 「戦没船員の碑」 に永久奉安されることとなった。 鹿児島商船同窓会の方々初め関係する各位に厚く御礼申し上げるとともに、 この慰霊碑の永遠にわたる維持・管理等に関係各位と協同して努力いたす所存である。
 川村会長は、 この吉報を同日付で金田会長宛に文書を以って報告し、 会長初め関係有志の永年にわたるご尽力に改めて感謝の意を伝えるとともに、 本年5月13日に慰霊碑前で挙行される第34回戦没殉職船員追悼式において、 お逢いできることを心待ちしていると伝えた。