投稿                  現役パイロットの方々から
          古い船乗りの雑書(ザツガキ)から
  
                              中 山 惇 雄
                           (富山 N50期・伊良湖三河湾水先区・水先人)

1. PILOT
 名古屋の中心街、 栄の有名百貨店の文具売場の一角に熟年と呼ばれる年代の男達が群がっていた。 異様な熱気がこもっている、 本物を識る男達だ。
 今、 万年筆が静かにブームを惹き起しているそうである。 一本十数万円といった高級品が限定予約の段階で完売。 予約に漏れた人からの苦情に煽られてアタフタと走り廻る店員の姿があった。
 いつ頃、 誰から聞いたのかは記憶の外である。 真偽のほども定かでないが、 こんな話がある。 ―明治の頃か、 我等船乗りの大先輩が欧州航路に就航したときに万年筆を入手した。 あまりの精緻且つ実用的便利さに感激、 これを日本国内に広めんと決意した。 船乗りを廃業して興した会社が現在の株式会社パイロット万年筆。 命名にあたって“セイラー万年筆”(何故か、 セイラー万年筆は現存している)・・・いや、 船では船長が一番偉いからキャップテン万年筆がよろしかろう等々と考えたらしいが・・・、 その一番偉いキャップテンが毎入/出港、 海峡通航等の度に乗り込んで来る風采のあがらないご老人に最敬礼で接しているのを見て、 キャップテンよりも偉らそうなあの男は何者かと・・・。 『PILOT』。 それで決まったのがパイロット万年筆。 ―
 チョット出来すぎたお話ではありますが、 さて、 PILOT は一般にはどのように理解されているのだろうか。 手許にあるハンディな三省堂・国語辞典 (金田一京助編) で“水先”を引いてみた。 みずさき 「水先」、 ミズ− (名) 水の流れて行く方向。 A船の進む水路。 B←水先案内―あんない 「水先案内」 (名) 水路の案内 (をする人) パイロット。 とありました。
 水先法では、 この法律において 「水先」 とは水先区において、 船舶に乗り込み当該船舶を導くことをいう。 と定義し、 「水先人」 とは、 一定の水先区について水先人の免許を受けた者をいう。 と定めており、 その目的を、 この法律は水先をすることができる者の資格を定め、 及び水先業務の適正かつ円滑な遂行を確保することにより船舶交通の安全を図り、 あわせて船舶運航能率の増進に資することを目的とする。 と明示している。
 “船舶に乗り込む老人”さすが潟pイロット万年筆の観察力は確かでした。 私の所属する 「伊良湖三河湾水先区水先人会」 も一見すると風采のあがらないご老人達のクラブといった趣きではありますが、 どうして仲々、 日夜の奮闘により管轄する海域の船舶交通の安全を確保することによって中部経済圏の動脈硬化をやわらげ、 さらに伊勢志摩国立公園、 三河湾国定公園の環境保全に資していると自負しています。

2. 伊勢・三河の海湾 (ウ ミ)
 長く続く不況の中ではあるが、 ものつくりのメッカでもあり、 日本一の貿易高を維持する名古屋税関管内の諸港 (名古屋、 四日市、 三河及び衣浦港) へ出入りする船舶はマアマアの数量を保っている。 これ等の船舶は必ず伊良湖水道航路を通航することになる。
 伊良湖水道航路は昭和48年7月1日、 海上交通安全法の施行によって定められた航路の一つで特に狭隘な航路事情からその航行については諸々の規則 (航行管制) が実施されている。 航路は東側に軍艦 「朝日」 が座礁した朝日礁と西側の丸山出し、 コズカミ礁にはさまれた可航幅約1200メートル、 距離約2マイルの海峡で強い潮汐流といった自然条件に加え、 お魚さんが集まって来る絶好の漁場といった顔を合せもっていることから、 漁船が集中操業することになり、 航路/漁場と住み分けのきかない危険な海域となっている由である。
 三河湾国定公園、 伊良湖岬の古山中腹を削り取って建設された伊勢湾海上交通センター (伊勢湾マーチス) が平成15年7月1日運用を開始し、 より安全で、 より効率的な船舶交通を確保するため従来の VHF ラジオによる管制に加えてレーダーによる航行管制が実施された。 しかし、 それぞれの船舶が航路の右側を航行する狭隘な航路内には漁船が多い。 二艘曳き漁等無謀とも思われる漁に薄氷を踏む航行が続いている。 伊勢湾マーチスはただ傍観するのみで、 ここには海上交通安全法の施行は無いに等しい。
 幸いにも伊勢湾、 三河湾内には米軍・自衛隊の基地を有しない。 従って隊列航行等特異な航法を採る艦船の存在もなく、 潜水艦“なだしお”/遊漁船“第一富士丸”のような悲惨な海難は発生していない。
 国定公園に指定されている景勝の地、 ユッタリと国定公園内の航行を楽しみたいものと思っている。

3. 旗章・信号のことなど
 先日、 米国籍コンティナー船 M/S“SEA-LAND DEFENDER”(32,629G/T) を伊勢湾口/名古屋港外の間、 嚮導した。 礼儀正しくデストネーション フラッグ、 日の丸をフォーマストに掲げての入航であった。 一見粗雑のようにも見えるが米国船員のシーマンシップは仲々のものである。 基本的なものはキッチリ押さえている。 狭視界時の船首、 船橋両舷側の見張員配置、 入/出港時の緊急投錨要員配置等・・・。 混乗/近代化で我々日本人船員が失ってしまったシーマンシップの基本がここではシッカリと生き続けている。
 比較するのも気の毒な話ではあるが、 かの有名な北朝鮮を代表する 「万景峰号」 の新潟入港をTV画面に見る。 船橋レーダーマストの左舷側ヤード端にデストネーション フラッグ“日の丸”がはためいていた。 彼の国の海事・船員教育がどの程度のものであり、 どのように行なわれているかは不明であるが、 相当に低劣のレベルであることは体感している。 旗章掲揚の知識はゼロと判断せざるを得ない。 40数年前の習い覚えではフォーマスト索、 檣間索の使用を省略したとしても、 日の丸の旗は表敬の意を込めて右舷ヤード端に揚げるべきではないだろうか。 (イヤ、 ヒョットすると全てを十二分に承知の上で、 イヤイヤ掲揚した日の丸の旗だったのかも・・・)
 国旗について考えてみた。 日の丸の旗が国旗として法定されたのは最近のことであり、 法律制定にあたってはいろいろな議論があったことは記憶に新しい。 日本が近代国家として発展する歴史は、 日清、 日露、 日中そして大東亜戦争と拡大して行く戦争の歴史とも重なる。 そしてその先頭に日の丸の旗がひらめいていたのも事実であろう。 この日の丸の旗の下で抑圧、 拷問、 人間性の否定、 さらには死をもたらせられた人々も少くはないだろう。 しかし、 これ等はなんら日の丸の旗に責任を問うものではないと考える。
 昔から海上においては国旗を掲げていない船舶は海賊船と見なされ非合法化された。 法律で制定するまでもなく日の丸の旗は我々船乗りの国籍、 身分を証明する記章として拠るところ大であり、 大切に大切に取扱われてきた。 戦後の相当期間、 日本船舶はこの日の丸の旗を 「GHQ」 に取り上げられ、 それに代わるものとして、 いわゆるスケジャップ フラッグ (国際信号旗Dにあたる) の掲揚を強いられた。 「肩ふり」 の折々に先輩船員達からその無念さを聞かされたものである。
 旗にまつわる想いは多い。 商船学校一年次の短期乗船実習の想い出である。 現在、 神戸商船大・深江に係留されている“進徳丸”でのこと。 リーサイドワッチの時である。 出帆に先立って船名符字 (現在はコールサインと言うのが一般的か) の綴り4旗を檣間索に掲揚した 「JEQJ」 と、 紛らわしさもあり 「JQEJ」 と反対サカサマに掲揚して大目玉を喰ったこともなつかしい。
 近年、 海技の世界は革命的である。 かって入/出港、 通峡時等に行なわれていた発光信号、 国際信号旗による船/陸、 船/船間のコミュニケーションは VHF ラジオに取って替られた。 乗り込む船舶の船員達の変化も激しい。 韓国、 フィリッピン船員達はキーマンと化し、 ベトナム、 ミャンマー、 中国 (大陸)、 そして東欧出身者へとシフトしている。 モールス符号は言わずもがな。 国際信号旗を理解できない航海士・船長の多いことに驚きと失望を覚てえいる。
 しかし旗章には旗章の持つ儀礼には欠かせない特別の意義がある。 貴紳、 高官の乗船を示す皇族旗、 将官旗等その身分を表わすものがある。 いずれも公(オオヤケ)のものである。
 我々 PILOT が船舶に乗り込むと、 檣頭近くに水先旗 (国際信号旗H) がひらめく。 シビリアンとしてその存在を内外に示す旗を掲揚して職務を遂行するのは水先人だけであろうか。 誇りを覚える一瞬である。

4. 嚮導船 No. 0001
 私の水先開業第一船は、 当会の恒例通り元旦の出/入港船で、 4〜5日前には名古屋出港の自動車専用船と決定していた。 当時は自動車輸出の台数自主規制が実施されており、 年末に積切った船は、 名古屋、 豊橋港外で錨泊、 出帆調整を行なっていた。
 平成6年12月31日23:00時、 名古屋港税関桟橋をボートで出港、 検疫錨地西南西近くに錨泊する本船に向かった。
(PILOT LOG’S による) 嚮導船・1M/S“KASSEL”/JXPX3 (ノルウェー船籍) 172.5M、 15,732G/T、 吃水8.5M。
 23:28時、 水先人として最初の船に乗り込んだ。 年齢55歳、 せめて5〜6年のキャリアーには見せたいものと、 第一声 「キャップテン、 用意はよろしいか」。 船長の 「オーケ、 エブリシンググッド」 の返事を得た。
 北北西/12〜15m/s の強風下、 錨は左舷8節、 ホースパイプの状態であったので、 平成7年1月1日00:01時のアップアンカー/出帆を目論んで23:35時、 ヒーブインアンカーの令を下した。 少しばかり落ち着き周囲の状況がはっきりするにつれて緊張が恐怖に変わってきた。
 越年/年明けをなるべく陸地近くでと、 囲りはビッシリと小型錨泊船に占められている。 4〜5日間の錨泊中に四囲をすっかり取り囲まれてしまった様子なのである。 強風の中、 ウインドラス/主機とそして私の船乗りとして30数年間のキャリヤーを全部出し払っても錨は仲々捲き揚らない。 捲き詰めて行くとA丸に急に接近、 エンジンを後進に使うと今度はウインドラスが悲鳴をあげて錨鎖がウナル。 舵を切る、 今度はB丸に接近と。 フーッと気が付くと横で船長も懸命にバウスラスターを操作していた。 風が少しやわらいだのか目論見より49分間も遅れて平成7年1月1日00:50時ようやくアップアンカー。 ホッとする間もなく行脚のない本船は不安定の上強い風圧を受けてドンドン流される。 船長共々もう必死である。
 風向に平行に近く航過できるコースをレーダー及び目視で探る。 やっとの思いで錨泊船群を抜けて、 01:11時、 伊勢湾第6号灯浮標に並航、 伊良湖水道航路に向けて南航を開始した。 「STEER 175°、 ENGINE/SEA SPEED」 船橋の中で“A HAPPY NEW YEAR”の声があがった。 揚錨開始から実に1時間36分も経過していた。
 緊張の 3 時間42分後の03:10時、 伊良湖岬沖で水先艇に乗り移り第一船目の嚮導を無事に終えた。
 船橋を去るに当たりバイキングの末、 CAPT. A R N O L D H E I T M A N N が 私 の 手 を 握 り“PILOT NICE JOB THANK YOU”と言ってくれた言葉の響きと、 あの大きな手の暖かみは今も残っている。