南太平洋戦没者遺骨収集の記録         


                      自 1955年1月12日
                      至 1955年3月19日
      ニューギニア野戦病院の軍医と
            歩兵16連隊認識票一三〇二の英霊に捧ぐ


                                           有 井 俊 隆
                                       (富山 N46期 S31年卒)


 この日記は運輸省 (当時) 航海訓練所練習船大成丸 (2,340GT 椎名薫船長) で、 南海方面で第二次大戦中戦没した日本将兵の遺骨収集に、 実習生として昭和30年 (1955年) 1月12日から3月19日まで参加した時、 書き留めたメモを47年経過したのを契機に整理し、 戦争の悲惨さを後の世に少しでも伝えたいと思う。
                                             平成14年1月12日 記



昭和30年1月12日 11:00頃舷門当直をしていると、 「あなた達も行くんですか?」 「はい」 「お願いがあります」 一人の老婦人に岸壁から声をかけられた。 ニューギニアで戦死した子息 (Wewak野戦病院の軍医) の様子を、 帰還した戦友から聞いたと言って戦死地の様子を話された。 ブリッジに案内して海図で場所を確認。 「あの子は煙草が好きでした、 マッチがないと可愛そう」。 確かにお預かりしました。

   子の眠る南の島に行きたしと
      船を訪ねし老婦のありて
   今吾は南の島に船出せむ
      御子の御霊を迎えんとして

 北斗丸 吉野三等航海士 作詩
   南洋に姿を消しし吾叔父の
      眠りを覚ませ子等の足音

 14:30 東京港竹芝岸壁離岸。 全国民8000万人の祈りの声が聞こえる。 船首で出港作業中ポケットに入れた預かり物に触れてみる。

1月13日 午前中天測 11時頃からエンジンの調子悪く10ノットが6ノットに落ちた。
 14:30 エンジンストップ。 コンデンサー内部の冷却パイプから海水が入ったとか。

1月14日 09:00 天測したがあまり自信がない。 ミッドナイトワッチ田村三航士は富山の先輩だ、 新湊の町での悪戯話とても愉快。 正月の餅をスチームで温めて食う。 また楽し。

1月15日 成人の日 モーニングワッチ 海は静かで瀬戸内海並室内温度も15−16度快適。
 夕日が実に美しい、 でも30分後にはスターサイトが始まる。

1月16日 1月17日 海静か 天測 ワッチ 読書 (ドストエーフェスキーの 「罪と罰」 を読んでたら21日までメモなし)。

1月22日 Gudalcanalまで3,000浬、 後まだ1,000浬、 明日は赤道祭兼船内運動会だ。
 スコールが度々やって来る水不足には有難い。 雨はやはり冷たい。

1月23日 09:00より船内運動会。 乗組員、 実習生、 派遣団員、 逆立ち競争、 綱引き、 アベック競争にいたるまで皆童心に返って楽しかった。 12:00赤道祭。 南半球に住む海神夫妻が大勢の供を連れて乗船し俄仕込みの船長に鍵を渡し、 赤道を越える許可を出して呉れた。
 機関室44度、 室内30度、 暑い、 扇風機なんて効果なし。 一週間ぶりに海水風呂あり、 タップ2杯の清水有難いね、 尊いね。 食事 朝 卵一個 味噌汁 ご飯 漬物。 昼 鯛の尾頭付き 蒲鉾 卵 漬物 青物 赤飯。 夜 親子丼 汁 漬物 りんご一個 ポートワイン一本 サイダー半本 飴 おこし 煙草3本。 18:30スコールに追いつく。 15:45 東経158-43 赤道通過 南半球に入る。

1月24日 天測、 南半球を忘れるな、 南半球だぞ! だけど曇雨天でうまくいかない。

1月25日 今日も雨、 昨日予定していた海上追悼式が雨の為ロビーで行われた。 水の缶詰、 米、 花輪、 数多くの亡き肉親への便り、 父、 夫、 兄、 弟、 息子を赤道を越えたはるかな南半球で失った人々の嘆きは計り知れない。 その中に我々商船乗組みの数多くの先輩もいた。 14:40 小雨の中、 花輪が海中に投げられ、 船は左旋回しながら汽笛を鳴らし続けた。 10年前どんな思いで海に沈んだことだろうか? 「夫はビールが好きでした」 つまみのついた小さなビールの包みに書かれた女文字が波に消えるまで胸が痛んだ。

1月26日 09:00 (時差2時間) Gudalcanal Honiara 入港。 30トン位の船が豪州国旗を立てて数名の軍人と二人の警官でやって来た。 警官のスタイルは、 黒のCap半袖黒シャツ、 下は脇の切れた黒のショートスカート、 腰には赤いビロードの帯、 その上に皮のベルト、 素足、 肌は黒一色。 椎名船長と数名の団員が上陸、 俺たちは上陸なし。

1月27日 停泊第一日目。 50名がボートに分乗LungaとPohaに分かれて激戦地跡に出発。 俺、 留守番、 一番ハッチから慰霊碑をデッキに揚げる。 夕方ボートで上陸組を迎えに行く。 待ってる間、 現地の子供たちと手まねの雑談、 東京から10ノットで二週間かかったと言ったら遅いといやがった。 (慰霊碑はLungaの墓地に埋められた 新聞報道)

1月28日 Pohaに遺骨収集に行く、 桟橋から道具をトラックに載せて25分、 土民がジャングルの中に道を作ってくれた。 大いに協力的で嬉しかった。 大木のある行き止まりからPoha河に沿って15分道具を担いで行くと、 小さな平地があった旧軍隊の墓地である。
 シャベル一突き毎に骨、 骨また骨。 淡路島の村上さんがいつまでもいつまでも手を合わせていた。 遺骨を河原に運び小枝を重ねた上に並べ石油をかけて火葬にした。 こうして13年間南海の島に眠る兵士の御霊は蘇った。 汗と泥にまみれジャングル特有の湿気に悩まされながら35名は全力を尽した。 俺は認識票を一枚見つけた。 歩兵16連隊の一三〇二だった。
 ベルトの金具とテントの金具、 この人は全滅の時亡くなったのだろう、 土くれ一つ乗せてくれる者もなく木の葉を少し被って倒れていた。 俺は到底遺族にこの有様を話す勇気がない、 余りにもひどいではないか。 このPohaからHoniaraの裏山を越えてLungaを攻める予定で集結した人達だとのこと。 俺は心から 「戦争だけはしたくない」 と思った。 この世に生を受けて20数年この南の地に食べる物も無く、 薬も無く死んで行ったのだ。
  (氏名不詳約300体収集 新聞報道) これは天災ではない人類最大の人災だ。 「安らかにお眠り下さい 過ちは繰り返しませんから」 広島を思い出した。

1月29日 派遣団員数名が午前中Honiaraへ行った。 14:05 Honiara出港 横浜飛行艇隊基地のあったTulage沖に廻り長声三発。 さらにガ島最後の激戦地Espelance岬沖長声三発。 海岸線には静かに椰子の葉が繁るのみ。 (ルンガ上陸不許可)

1月30日 午後海上追悼式 仏式・神式夫々和尚・神主。 式を済ませて供物、 花輪が海上に投げられた。 大成丸はRabaulへ。
         

1月31日 14:00海上追悼式 強い日差しの中、 左旋回 長声が鳴り続けた。

2月1日 10:40  Rabaul入港。 おびただしい数の赤錆びた沈船、 座礁した日本の商船、 船名がはっきり読める。 着岸後タンクローリーから燃料と清水の補給。 18:00中止。 明朝より再開予定。 休養。 いつ着くか判らないが親兄弟にエアーメールを出した。 オーストラリア経由の飛行機なんて有るのかなあ?




2月2日 09:00 派遣団出発 戦後 戦争犯罪人として処刑された人々の墓地。 旧海軍墓地の下見とのこと。
 慰霊祭 慰霊碑の準備作業。


2月3日 朝から墓の発掘作業。 墓標のペンキの読める人の遺骨 (判明分610体 新聞報道) は、 一人分ずつ並べ氏名不詳 (処刑者95体墓標なし 新聞報道) の遺骨は一箇所にまとめて火葬。 暑さと匂いがたまらないが、 連れて帰りたい一心で懸命に作業を続け、 慰霊碑を墓地に建てた。 帰船後スコールを待ったけど遥か彼方を通り過ぎた。 水が欲しい。

2月4日 13:45  Rabaul出港。 皆疲れが出始めた。 滝壷の中で泳いでいる夢を見た。

2月5日 Morning watch 午前中休み。 午後Collision matt 作り。

2月6日 08:50 Bougainville Buin (エレベンタ) 入港。 山本五十六元帥終焉の地に派遣団数名元帥搭乗機墜落跡視察に出発。

2月7日 17:00 Buin 出港。

2月8日 18:10 Buna 入港。

2月9日 Bunaの西3マイルSasalanda (小田健作少将自決の地 新聞報道) で遺骨収集作業。 銃弾にブチ抜かれた飯盒、 水筒、 鉄兜、 錆びた銃、 銃剣、 石鹸箱、 歯ブラシケース、 時間が無く全遺骨収集出来ず申し訳ない、 御免なさい。 14:00慰霊碑設置。 追悼式が行われた。 合掌。 帰路についたが後ろ髪を引かれる。

2月10日 遺骨収集作業。 火葬。 皆疲れがピークに来ている。 暑くて不眠が続く。

2月11日 遺骨収集作業。 火葬。 慰霊碑を建て追悼式。 15:45 Buna 出港。

2月12日 07:30 Salamoua 入港。 上陸なし。 休養。
2月13日 遺骨収集準備作業。 救命艇にスコップ、 テント、 薪、 石油、 リヤカー等を手早く積み艇を海面に降ろす。 「作業員整列15分前」 急いで作業服に着替える。 軍靴を履く。 弁当を包む。 水筒を準備する。 軍手と煙草をポケットに入れる。 「作業員整列5分前」 プープデッキに駆け上がる。 タラップを降りて乗艇。 モーターボートに曳かれて目的地の砂浜へ。
 16:00頃一日の作業を終えた艇が、 泥だらけの人々を乗せて帰ってくる。
  「ピー! 機動艇・救命艇揚げ方。 甲板部。 航海科実習生上へ」 モーターボートを引き揚げるグループと、 救命艇を片付けるグループに分かれて留守番チームは大忙しだ。 朝積み込んだ薪の替わりに大きな袋が数個、 火葬を済ませた無名戦士の遺骨だ。 袋には収集された地名だけが墨で書かれている。 何処のどなたか知る由もない。 夕食後、 卓球、 腕相撲、 肩振り、 海静か、 つかの間の息抜き。

2月14日 08:55 Salamoua 出港。 Lae沖。 海図不備。 水深不明。 底質不詳。 船首でサンドレッド投入 〔俺は練習船対抗試合で優勝したことがある〕 を繰り返す。 投錨地を探す椎名船長の顔は強張っていた。 11:10 Lae 入港。

2月15日 四谷 〔長野県佐久町〕 の姉夫妻から 「便り受け取った、 無事の航海を祈る」 とカタカナの電報が来た。 〔義兄は戦中ラバウル航空隊のパイロット〕 Rabaul から親兄弟に出した手紙が無事配達された事が確認できた。 嬉しかった。
♪ 兎追いし彼の山 小鮒釣りし彼の川 
 山の中の国民学校が思い出された。 日本に帰りたいなあ。 清水風呂に頭から入りたい。

2月16日 09:30 Lae 出港。
2月17日 09:45 Finsh haven 入港。
2月18日 18:00 Finsh haven 出港。

2月19日 13:40 Madang 入港。  久し振りの接岸停泊。 椰子の並木。 町家並とてもきれいだ。 飛行場も有るとの事、 中国人が数多く見受けられる。 Rabaul から乗船している舷門警備の警官達とも気心が知れたのか親しみが湧いてきた。 短期間なら住んでも良いな。

2月20日 実習生26名、 遺骨収集作業に出発。 俺留守番、 外板の錆び落とし。 暑いし喉は渇くし、 食欲不振、 疲れた。

2月21日 09:15  Madang 出港。

2月22日 08:15 Wewak 入港。 遺骨収集作業に行く。 防空壕を掘ったが遺骨は見つからず。 明日は東京で出港前話を聞いた老婦人のご子息 〔軍医〕 の、 野戦病院跡の作業グループに加えて貰った。

2月23日 今日、 私はご子息の野戦病院跡に行きました。 私達25名はトラックに道具とともに乗り、 08:00 目的地ツルマキ河に向けて出発しました。 道路は良く整備されていました。 右側に海、 左側に椰子の並木、 その奥はジャングルでした。 20分ほど行くと道は狭くなり、 沼地に架けられた橋を渡り右に曲がるとウエワク飛行場跡に出ました。
  コの字型の土塀の中に米軍の爆撃で破壊された、 日の丸を付けたゼロ戦が何十機も空しく並んでいました。 飛び立つ間もなく、 ことごとく潰されていました。 それに山の上に並んだ石の戦車には驚きました。 楠正成の千早城藁人形と同じ発想ではないか。 暫く行くと整備された山肌にパイナップルやパパイヤの畑が見えました。 現地人の村には学校や教会もあり手入れの行き届いた家並も有りました。 村を過ぎるとツルマキ河に出ました。 ここでトラックを降り膝まで水に漬かりながら河を渡り、 丸山部隊の基地跡に行きました。 残念ながら何も見つかりませんでした。 この河の南西側の崖下が野戦病院の跡です。 お話の通り切り立った岩が殆ど垂直に立ち朝日に輝いていました。 病院跡は綺麗に整地され5年前にミッションスクールが建てられたとの事でした。 廻りもパパイヤや椰子の木が植えられて綺麗に整備されていました。 ご子息はこの地の何処かで眠っている事と思い目を閉じて合掌しました。 お預かりした煙草とマッチは学校の庭に埋めました。 崖の上には教会が建っていました。 まわりの家並も手入れが良く行き届いていました。 病院跡の崖下に防空壕を見つけました。 この中に十名程の遺骨を見つけました。 鉄兜や飯盒等の遺品も有りました。 私達はもう一つの飛行場の奥にある野戦病院跡に行きましたが、 そこはジャングルの中で遺骨は有りませんでした。 一方、 私達とは反対に南側の山に行ったグループは、 飛行場の南側から現地人の案内で二つの丘を越えて病院跡を見つけ、 墓地からドラム缶に入れられた小指の骨や頭髪を掘り出して1,500体もの遺骨と、 何千人分かの患者名簿を収集して来ました。 何時の日か日本に送り返すために整えたようです。 帰りのボートに乗る前に私は砂浜で小さな貝殻の付着した石を四個拾いました。 東京に持ち帰ります。

2月24日 12:50 Wewak 出港。 
       14:55 Mush 入港。

2月25日 Mushでは終戦後1,500名もの人々が飢えと病で亡くなったとの事。 うち400体を発掘した。 午後4人の生存者が乗船した。 この10年どのようにして生き延びたのだろう。 数ヶ月前オーストラリア兵によって発見収容されたとの事。 比較的元気に見える。

2月26日 朝から遺骨収集作業。 氏名判明者多数。 終戦後落命者で墓標多数判読できた。

2月27日 50名が発掘作業に出発。 俺留守番。 錆打ち、 ペン塗り、 皆心身ともに疲れ果てているが黙々と与えられた命に従っている。 これが航海実習かよー? 3日間で氏名判明遺骨1,500体収集、 激しい作業だった。 一週間に一度の海水風呂、 スコールがこないと頭が洗えない。 清水風呂で石鹸を目一杯泡立てたい。 東京まで後20日。 まだまだ先は長い。
 17:00  Mush 出港。

2月28日 空白 (遺骨収集作業に従事したと思われる)。

3月1日 08:50 Boikin 出港。
      16:10 Aitape 入港。

3月2日 Aitape の停泊は無意味に終わった。 なれない作業とこの暑さ、 水不足さすが
  二十歳前後の若者も疲れ果てた。 次第に言葉少なに。
  訴える者
   1. 赤錆た船の残骸
     密林に横たわる幾多の屍
     十年の歳月を跳び越えて
     訴えるそれらの声は
   2. 日の丸の鮮やかに残る戦闘機
     崩れた壕の中の小さな雫
     静かな南太平洋の島の中で
     訴える声が微かに聞こえる
   3. 変わらぬ大自然の中で
     人々は眠り得ずして訴える
     この悲劇を この苦しみを
     波は今日も岸を打つ
   4. 平和で静かな島に
     打ち寄せる波は無心だが
     十年前の悲劇だけは忘れない
     彼らもまた無言で訴える

3月3日 04:55  Aitape 出港。
3月4日 航海。

3月5日 08:05  Losnegros 入港。 午後収集作業に上陸、 飛行場跡に5機、 戦闘機の残骸あり。 遺骨なし。

 最後の追悼式に参列。 岬に近い大きな木の下の涼しげな見晴らしの良い場所に碑は建てられた。 豪州側から10名の参列者があり、 今までにない立派な式だった。 これで現地の行事は全て終わった。 東京まで無事の航海を祈るのみ。 5,888体の遺骨は帰国の日を待ち侘びながら今祭壇に静かに眠っている。 4人の生存兵士も思いはきっと同じだろう。
 12:55 東京向けLosnegros 出港。 帰路についた。

3月19日 横浜沖で4人の生存者下船。 09:15 東京港竹芝岸壁に着岸 3,000人余の遺族が迎えてくれた。 その中にWewak野戦病院軍医の母も居た。 次から次えとセレモニーがあって、 Wewakの貝殻石を手渡したのは午後だった。




   派遣団行動予定   PDFファイル 6KB

   



 新聞記事から要約転載
  戦争中、 軍属として乗り組んだ船員は73,000人。 戦死者は35,000人に及び死亡率は、 軍人より上回り45%に達した。 今度 「大成丸」 が回った南太平洋の豪英地区で沈没した輸送船は200隻に達し、 8,000人に及ぶ船員犠牲者を出した。 収集した遺骨は5,888体、 そのうち氏名の判った者は約三分の一である。 しかし船員ではラバウル野戦病院で戦死した、 第八大黒丸の島 元吉さん 〔徳島県〕 唯一人である。 4人の遺族代表に初めて船員遺族の代表として実兄が山浦丸で戦死した鈴木正勝さんが派遣された。 この日、 山浦丸のたった一人の生存者佐藤重樹さん 〔当時三等航海士〕 がわざわざ三重県から上京、 輸送船乗組員が如何に虐待され死んで行ったかを、 生々しく語った。

「訓練航海と遺骨収集 実習生の二重の苦労」     (新聞記事から転載)
 こんどの大成丸の遺骨収集は練習船でなければできない仕事だった。 椎名薫船長以下157名の乗組員 (うち商船大学機関科実習生28名、 商船学校航海科実習生61名) の献身的作業がなければ遺骨収集作業は事実困難だった。 遺族代表団は 「乗組員および実習生の協力に対しては感謝の言葉なし」 と声明を発表した。
 実際、 60余日に及ぶ40度なら涼しかったという猛暑の航海中、 訓練を続けるだけで大変な苦労なのに、 各地での遺骨収集作業と二重の苦労であったワケである。 紅顔の実習生たちはヒゲは伸び放題、 余りの暑さに食事も充分とることができず、 平均一貫目はやせたといって、 みなゲッソリした顔をしていた。 「しかし僕たちは誰でもやれることのできない、 貴重な体験をしたのですし、 たくさんの遺族の方々の心になって我慢してきました」 と語っていた。
「大成丸」 遺骨収集時の乗組員構成等
船     長  椎名  薫
首席一等航海士  児玉 正作
次席一等航海士  櫻井 幹夫
首席二等航海士  山本 勝夫
次席二等航海士  戸刈  清
首席三等航海士  千原  悟
次席三等航海士  田村 一夫 〔富山N40〕
機  関  長  明星 四郎
首席一等機関士  土屋 八朗
次席一等機関士  林  達夫
首席二等機関士  岡崎 憲太郎
次席二等機関士  稲陰 与一
三等機関士  石村 正雄
通  信  長  戸沢 又平
二等通信士  井上 好文
三等通信士   橋本  勝
事  務  長  三橋 俊夫
事  務  員  樋口 武英
事  務  員  浦野 三郎
船     医  難藤 正明 (政府派遣)
 
    職員計    20名
        甲板部 17名 機関部 14名 事務部 13名
    部員計 44名
    航海科実習生計 61名
    機関科実習生計 27名
    政府派遣団員 白井団長以下計 18名
       総 合 計   170名
       (他に4名の生存者)

  航海時間  36日20時間00分
  航走距離  8,340浬
  平均速力  9.60ノット
  燃料消費  676.08トン
  清水消費  561トン
     (以上入出港時間を含め航海訓練所の資料から転載)


平成14年1月28日 クラスメートで同じく大成丸の遺骨収集に参加した松永五郎さんを訪ねた。 上記の日記を見てもらい間違いや表現方法を指摘して貰おうと思った。 航海訓練所に電話 事情を説明実習生名簿を依頼 「古い資料ですから時間を下さい30日においでください」 と作田さんが約束してくれた。 もう一人のクラスメート斎藤兼光さん、 松永さんの知人で仕事帰りの田宮さんの四人で松永さん宅で夕食を始めた。 話が大成丸に及び始めると松永さんが 「ガダルカナルの戦いと言う写真集 〔草思社 1995.10.2発行〕 を知っているか」 と言い出した。 私 「知らない そんなもの見たくない」、 「まあ見ろよ 何かの参考になるよ」 米軍側の撮影した日本軍ガ島敗退の写真集だった。 右手で箸を動かしながら、 左手でページをめくり、 あの日ジャングルの中の河原での火葬作業を思い出していた。 食べてはめくり、 飲んではめくり、 ああ後4〜5枚だなあと思った瞬間、 小さな認識票の写真に目が釘付けになった。 「一三〇二」 間違いなくあの日ポハ河畔で発見した認識票だ。 「あっ 俺が見つけたやつだ」 大声で叫んだ。 皆いっせいに無言でこちらを見た。 私はそのとき何故か写真集のページ数を見ていた197ページだった。 見つけたのは丁度47年前の今日だったんだ、 一体これは何なんだ。 興奮の為か唇が震えていた。
  写真には 「日本兵の遺体が身に付けていた認識票」 と説明があった。 当時の私の日記には、 「十六連隊 一三〇二」 だったと記されていた。 この方は私に会いたがっている、 何処の何方だろうか。 その夜は松永さん宅に泊まったが何時までも寝付かれなかった。 何とかこの方のお墓に花と線香をあげたい。 十六連隊に間違いないか誰に教えて貰ったかな? 故人の確認方法は? 今村さん? それとも原さんかな?

1月29日 松永さん宅から出版社 「草思社」 に電話、 写真を担当した 「もんじゅ社」 を教えられたので電話。 歩兵十六連隊は新潟県新発田市であるとの事、 新発田市役所、 防衛庁戦史部、 新潟日報等々に事情を話し、 この方の情報を見つけ出そうと試みた。 昼前、 新発田市役所から電話を頂いた。 「新発田市の戦友会と遺族会は今は 「あやめ会」 と言います。 会長は長谷川栄作さん、 世話役は畑山秀三さんです」 と二人の電話番号を教えて頂いた。 大成丸仲間の山口義治さん (鳥羽商船) に電話で事情説明。 16:15 畑山さんに電話、 事情を話すと 「私は陸士出の航空隊でした、 歩兵の事は長谷川さんが詳しいと思いますが、 今体調を崩して入院しています。 近日中に連絡を取りますので、 あらためて電話して下さい」。  12:30 クラスメートで大成丸仲間の高野穂積さんが、 お寿司を抱えて松永宅に来宅。 三人で昼食。 夕方田宮さんが、 きりたんぽ鍋を持参してくれて四人で夕食。 話は大成丸の当時へと自然に進む。 私はこの夜も松永さん宅に宿泊。 高野さん田宮さん帰宅の後も遅くまで松永さんと話し合った。

1月30日 13:00 航海訓練所を松永さんと二人で訪問。 海務課の作田さん 〔富山商船の後輩〕 が古い資料を探し出して待っていてくれた。 訪問地の地名、 入出港の時間、 航海時間その他の記録、 写真集、 船舶職員名簿等確認出来たが、 一番欲しかった実習生名簿が無く残念。  15:30に松永家に帰宅。 厚生労働省引揚援護局外事室に電話。 事情を説明したら電話口の手塚さんが調査を承知してくれた。 「ガダルカナルの戦い」 を松永さんに借りて帰宅。

1月31日 午前中、 松山市在住で大成丸仲間の五十崎茂雄さん (弓削商船) に電話。 後輩で同窓会の事務局もしている、 母校の島木教授に電話。 事情を話し協力を仰ぐ。 16:50 新発田の畑山さんに電話 「長谷川さんとまだ連絡が取れていません。 又電話をして下さい」。

2月1日 13:50 厚生労働省の手塚さんに電話 「政府派遣団の名簿等が見つかりました。 個人情報もありますので整理点検して、 後日郵送しましょう住所を教えて下さい」 「十六連隊の一三〇二のお名前が若し判れば教えて下さい」 「個人情報は出せない事になっていますが、 事情は判りますから、 探して見ましょう」 「有難うございます。 私の住所は・・・です。 宜しくお願いします」 「何分にも古い資料ですから、 少し時間を下さい」 皆さん本当に親切だ。
有井 俊隆 様
 先日お問い合わせ頂きました、 昭和30年1月に実施された南東方面英豪地域戦没者の遺骨の送還及び追悼に関する政府派遣について調べましたところ、 収集実施報告書には 「大成丸乗組員及び実習生のうちより実働少なくも50名 (ラバウル、 ムシュ島に於いては実習生の大部) の作業協力を得る。」 や、 「大成丸船長以下乗組員及び実習生の献身的な協力なくては、 この成果は全く得られなかったものであり、 団員一同心から感謝している次第であります。」 等の大成丸乗組員及び実習生に関する記載はありますが、 残念なことに大成丸乗組員及び実習生の名簿は掲載されておりませんでした。
 参考に政府派遣団名簿等関連する資料を送付いたしますのでよろしくおねがいします。
             平成14年2月1日

厚生労働省 境・援護局援護企画課外事室
                外事第3係 手塚 直樹

南東方面英豪地域戦没者の遺骨の送還 及び追悼に関する政府派遣団団員名簿
   団 長 中部復員連絡局善通寺支部長
           厚生事務官  白井 儀十郎
   (イロハ順)
   団 員 引揚援護局審査第一課
           厚生事務官  今 村  秀
        引揚援護局整理第一課
           厚生事務官  原   四郎
                    橋口  兼隆
                    西山  是兼
                    小畑  耕一
       外務省アジア局第二課
           外務事務官  岡崎  慶興
       引揚援護局
          兼厚生事務官  鎌田 東之助
                     田中  靖鷹
                     滝沢  市郎
                     難藤  正明
                     村 上  虎
      引揚援護局整理第二課
           厚生事務官  福 島  勉
                    海老沢 和雄
                    遠藤  文夫
                    水上  正道
      引揚援護局総務課
           厚生事務官  宮井  一郎
      引揚援護局業務第二課
           厚生事務官  杉山  可勝
                     鈴木  正勝


大成丸 その2

2月2日 47年前の新聞の切り抜きを読み返してみる。 帰国時の報道合戦の記事にはあらためて驚いた、 事故が無くて良かった。 天気は良かったが風波の強い日だった。

2月5日 18:30 大船の松永さん宅から帰宅。 厚生労働省 社会・援護局援護企画課外事室外事第三係 手塚直樹さんから、 丁寧な便りを受け取った。 政府派遣団19名 (医師難藤正明氏を含む) の名簿、 派遣団行動予定表、 航行経路図の3部が同封されていた。 やはり実習生名簿は無かった。 入手は難しそうだ。

2月6日 11:30 畑山さんに電話。 写真集の認識票のコピーをお送りする事になった。

2月7日 47年前の新聞の切抜きをコピーした。 意外なほど鮮明だった。

2月8日 畑山さんと手塚さんに、 未完成ではあるが日記と認識票や参考になると思われる写真のコピーを送った。  15:15 松永さんと家内の3人で、 湘南病院に検査入院中の、 クラスメートでやはり大成丸仲間の村井斉さんを見舞った。 記憶違いや認識票の確認方法その他のアドバイスをして貰うと、 日記のコピーを渡して依頼した。

2月13日 12:00 後輩の土屋正徳さんと 「富洋会」 の打合わせの後、 神田の讃岐そばやで昼食。 この話をしたら 「援護局に知合いが居ます。 今、 総務省にいますが必要なら調べてもらいます。 15日から一週間国外出張しますのでそれ以降になります」。 「有難う宜しく」。

2月14日 14:15 畑山さんに電話。 「あやめ会の事務局の方に関係書類を送りました。 彼が調査をしていてくれます。 住所、 電話番号も知らせてありますので、 暫く待ってください」、 「有難うございます。 宜しくお願いします」。 14:30 手塚さんに電話 「今ほかの仕事が立て込んでいますので少し時間を下さい。 草思社はなんですか?」 「ガダルカナルの戦いの出版社です。 何かの参考になればと思い記載したまでです。 お手数をお掛けしますが宜しくお願いします」。  15:00 クラスメートで大成丸仲間の笹岡久光さんに電話。 富洋会変更の知らせの後、 「当時の実習生名簿はないかな」 「ない。 航海訓練所は?」 「残念ながら無かった」 「防衛庁は?」 「戦史部に聞いたけど無理」 「学校は?」 「島木教授に聞いたけど無い」。 井村斉さんの検査入院について話す。 奥さんからの連絡待ちとする。

2月15日 Pm新宿副都心の新宿住友ビル31Fに 「平和祈念事業特別基金」 を訪問。 業務部で認識票の説明するも手掛かりなし。 シベリア抑留の 「戦後強制抑留絵画展」 を見て図書室に行きガ島の資料を探した。 「ガダルカナル戦史」 の付録に歩兵16連隊の連隊長以下幹部の名簿はあったが、 本文には手掛かりは得られなかった。 「あやめ会」 の連絡待ち。

2月25日 横浜市立医大付属病院に転院した井村さんを、 松永さんとお見舞い 「遺骨収集の記録」 を渡した。 18:00 同期で機関科の佐藤孝助さんが、 海苔巻を持って松永家に来宅3人で夕食。 山口さんと五十崎さんに大成丸乗船のクラスメート名の調査を電話で依頼。 松永宅宿泊。 佐藤さんが 「遺骨収集の記録」 を持って帰宅。 コピーを依頼。

3月4日 全船協横浜支部訪問。 会員名簿購入。 五商船航海科同期生の名簿作成。
3月5日 山口さん、 五十崎さんに日記のコピーと実習生名簿の調査を依頼し手紙を出した。
3月6日 五十崎さん歯の治療で一泊入院、 Eメールで激励。 名簿作成協力再度要請。

3月8日 佐藤さん、 井村さんの件で電話。 斉藤さんに日記のコピーを送り、 広島商船実習生名簿の件、 小川 (城) さんに聞いてくれるよう依頼。

3月12日 五十崎さんから弓削商船 大成丸仲間の名簿がメールで届いた。 多謝。

3月20日 16:00頃松永さんと家内の3人で井村さんを見舞った。 井村夫人の姉上。 17:30頃夫人の弟さん夫妻。 ピーターさんが到着。 ご長男 18:00 過ぎ到着。 ご長女夫妻お孫さん達の到着22:00頃との事。 20:20頃松永宅で夕食中、 井村夫人から訃報が入った。
 20:10 井村 斉さん逝去。 藤本、 野村についでまた一人大成丸仲間が去ってしまった。

3月23日 井村さんの通夜の席で、 大島商船の阿部陽二郎さんに大成丸実習生名簿の調査を依頼した。

4月6日 阿部さんから大島商船の大成丸実習生名簿が届いた。 16名だった。

4月10日 富洋会に参加。 土屋さんに 「遺骨収集の記録」 のコピーを渡して、 厚生労働省の知人の紹介を依頼した。

4月16日 土屋さんからEメール 「22日昼、 JR神田駅で待ち合わせ」 との連絡。

4月22日 12:20頃 土屋さんと田辺さんから総務省行政評価局総務課長橋口典央さんを紹介して頂き4人で昼食。 橋口さんに 「遺骨収集の記録」 のコピーを1セット渡して、 認識票1302の調査を依頼した。  21:00橋口さんにお礼のEメールを入れた。

5月10日 18:30 橋口さんから電話をもらった。 個人名は無理の模様。

5月13日 橋口さんから丁寧な便りがあり、 調査に協力してくれた厚生労働省社会・援護局外事室小林拝様の 「調査結果」 のコピーが同封されていた。 認識票1302は歩兵16連隊の 「部隊通称番号」 であり、 個人番号 「番36」 は部隊名簿に記載が無い為、 特定できないとの事。 橋口さんに礼状を出した。 紹介してくれた土屋さんにはEメールを入れた。 明後日戦没・殉職船員追悼式に始めて参加する事になった。  09:30松井さんと浦賀駅で待ち合わせることとした。

5月15日 07:00第32回戦没・殉職船員追悼式に出席の為、 家を出発。 09:15浦賀に到着。  11:00横須賀観音崎公園 「戦没船員の碑」 の広場で開式。 式の間中、 大成丸での十数回に亘る海上慰霊祭と、 破壊されて座礁した数多くの赤錆た商船が鮮明に思い出された。  12:30京急観音崎ホテルで懇親会。 同窓の松井邦夫さん、 川村赳さん、 小島泰夫さん、 松坂武彦さんも出席していた。 17:00帰宅。 好天で良かった。 合掌。 吉野さんに会えず残念。

6月13日 妻を成田に出迎え帰ると、 山口さんから 「蓼科旅行」 の写真と大成丸の鳥羽商船メンバーが同封されていた。 61名中55名が判明した。

6月14日 09:30お礼の電話をした。 塚越、 佐藤体調不良との事。

7月31日 山口夫妻、 有井夫妻、 松永、 井村夫人の6名で29,30,31の三日間軽井沢への小さな旅をして、 18:00帰宅。 21:15のNHK 「そのとき歴史が動いた」 を見た。 47年前のガ島 ポハ河の遺骨収集があらためて思い起こされた。 松平さん、 半藤さん 「陸軍の不敗神話」 とは一体何ですか?

8月4日 NHKには資料が無いだろうか? 松平アナウンサー宛に 「遺骨収集の記録」 を1セット、 調査希望の依頼文と共に発送した。

9月9日 NHK教養番組担当の斉藤圭介さんから、 丁寧な便りを受け取った。 残念ながら手掛かりは得られなかった。 お礼状を出してこの追跡調査を協力頂いた方々に感謝しつつ、 ひとまず終了することとした。  合掌。

大成丸 航海科 実習生名簿 (敬称略)
富山商船46期
有 井 俊 隆  井 村   斎
内 山 直 記  大 沢 陽 一
岡 崎 謙 司  笹 岡 久 光
須 藤 彰太郎  高 野 穂 積
松 永 五 郎  藤 本   豊
野 村 幸 雄  斉 藤 兼 光
遠 藤 峯 雄 高 田 松 美
山 浦 資 男  

鳥羽商船 71期   
岩 田 和 雄  漆 山 順 三
澤 田 忠三郎  田 村 豊 治
野 呂 卓 司  門 田   治
宮 本 清 治  三 澤 茂 明
山 口 義 治  中 川 信 夫
正 木   明  

広島商船 54期
石 原 武 雄  植 本   博
小 川 信 行(城)  木 原 孝 博
倉 橋   祐  小 山 聖 人(米原)
玉 城 市 男  中 西 隆 司
西 原 信 雄  大 島 浩 二

大島商船 54期
富 永   靖  豊 田   肇
上   教 夫  河 合 享 仲
田 中 年 雄  中 西   孝
上 野   治  山 下 芳 男
児 玉 洋 一  浅 海   進
阿 部 陽二郎  佐々木 三知男
伊ヶ崎 佳 弘 谷 原 敏 幸
佐 藤 忠 美 佐 原 彦 次
柴 田 一 成  

弓削商船 50期

五十崎 茂 雄  尾 崎   享
北 川   博  桑 村 澄 夫
丸 岡 博 三  米 沢 憲 一
島 田   弘  森 木   喬
 
      以上総計 61名

 松永、 山口、 小川、 阿部、 五十崎、 西原の諸氏、 名簿作りご協力有難うございました。

歩兵第16連隊認識票 「1302」 に係わる調査結果について(H.14.5.9.)

 ご依頼の調査結果についてご報告申し上げます。
 旧軍における認識票の記載内容については通常、 表面右側に部隊通称号、 中央に大隊・中隊番号、 左側に個人番号が刻印され、 裏面には何も記載されていないとのことです。
 ご提示の認識票の記載は 「右側に一三〇二、 左側に番三六」 と読み取れます。 この記載内容から当局保管資料で調査しましたところ、 「一三〇二」 については、 歩兵第16連隊の部隊通称番号であること。 「番36」 については、 当局保管の部隊名簿に認識票の個人番号の記載がないため個人を特定することは出来ませんでした。
 なお、 歩兵第16連隊の部隊略歴は概ね次の通りです。
昭和17年1月 宇品出港
昭和17年9月〜18年4月 ガダルカナル島作戦
昭和18年 比島、 マライ
昭和19年1月 ビルマ
昭和20年7月 印度支那、 終戦
 以上の通り当局資料では、 認識票から個人を特定することは困難な状況であることを、 ご報告申し上げます。

 総務省 行政評価局
  総務課長 橋口典央 様
        厚生労働省 社会・援護局
              外事室  小林 拝

有井 俊隆 様
 いつもNHKがお世話になっております。 またこの度は 「その時歴史は動いた」 をご覧戴きありがとう御座いました。
 さて過日、 お便りと遺骨収集の記録、 確かに拝受いたしました。
 記録を読ませていただきましたが、 当時の生々しい様子が伝わって参りました。 いまから47年前のことですから、 遺骨も完全な形のものが多かったと思われます。 有井様をはじめ皆様のご苦労がよくわかりました。
有井様は、 認識票一三〇二の方の身元がお知りになりたいとのことですが、 残念ながらNHKにはそうした件に関する資料はございません。 また記録を読ませていただきますと、 有井様ご自身かなり綿密なご調査をなさっているように伺われます。 有井様のあれほどのご努力にもかかわらず、 身元が判明しないということですから、 私どもの力ではとても及ばないものと考えます (もし私が身元を追おうとしたら、 やはり有井様のように戦友会や厚生労働省などに問い合わせを行っていると思います)。
 私も、 今回の取材で知り合った方々に機会を見つけて伺ってみますが、 ご期待に添えますかどうか。
 折角のお便りにもかかわらず、 ご要望に応えられないようなご返答で申し訳ございませんが、 なにとぞご容赦下さい。
 また記録の最後にあった 「陸軍の不敗神話」 についてですが、 これは、 明治時代に陸軍が創設されてから、 日清戦争、 日露戦争、 満州事変から日中戦争、 そしてガ島での敗北まで、 陸軍が一度も負けず、 そのことを誇っていたことを意味します (ノモンハン事件で敗北がありますが、 陸軍はこれを認めようとはしなかったといいます)。
 それでは誠に不十分ではございますが、 取り急ぎ上記お答えとさせていただきます。
 この時期、 夏の疲れが出る頃だと思いますので、 ご体調を崩されないようどうぞご自愛くださいませ。 では失礼させていただきます。
                                        NHK 教養番組
                                               斉藤 圭介
平成14年9月9日 受領

大成丸 その3
10月16日 笹岡さんから速達が来た。 防衛研究所 資料室の原 剛さんを弟さん経由で紹介してくれた。 21枚の当時の写真のコピーが同封されていた。 懐かしい写真も多数あり深謝。
 11:30 原さんに電話。 突然の電話にもかかわらず、 事情を了解され調査を約束してくれた。
 13:30  「遺骨収集の記録」 に手紙を添えて投函した。

10月31日 資料室の原 剛さんからはがきを受け取った。 残念ながら歩兵16連隊の個人名簿は無かったとのことだった。 笹岡さんにその旨報告し、 原さんに礼状を出した。 「あやめ会」 に問い合わせてみようと思う。

11月10日 年に一度の同窓会に出席して帰ると、 広島商船の倉橋祐さんから電話をもらったとのこと。 18:30 電話。 ノート一冊の当時の日記、 新聞の切り抜き、 自作の航跡図等手持ちがあるので、 必要なら協力するとのこと。 有難う。 実習生名簿のこと、 拾った認識票のこと、 などを話して、 住所を聞いた。