みなと散歩       (第2回)
 
 港の碑 (史跡) と観光スポット

 神戸港は、 遠い昔 「務古水門(むこのみなと)」 とよばれたこともあり、 奈良朝頃から 「大輪田泊」 として大陸や朝鮮半島との交流の窓口としての役目を果たしてきた。
 鎖国政策が解かれ、 長崎・横浜・函館などに遅れること8年、 旧暦慶応3年12月7日 (1868年1月1日) に 「兵庫」 の名のもとに開港した。 開港の日には英国の軍艦ロドニー号 (海洋博物館に、 その模型が展示されている) を旗艦とする12隻と米・仏・蘭などの6隻の計18隻が21発の礼砲で祝福したと言う。
 居留地が設けられ、 諸外国との貿易が盛んになって、 西洋文化が華開いたと言われます。
 港はその後、 明治6年 (1873年) に名称を 「神戸港」 に改められ、 明治、 大正、 昭和の時代での拡張や修築工事を経て、 近代的な港へと変身した。 昭和42年 (1967年) には、 日本で始めてコンテナ船を迎え、 昭和48年 (1973年) には、 コンテナの取扱量は世界一となった。 貨物量も増加していく中で、 平成7年 (1995年) 1月17日未明に襲った、 阪神・淡路大震災により、 神戸の街も神戸港の港湾施設も壊滅的な打撃を受けました。
 この未曾有の被害に対し、 国内外の温かい援助や励まし、 官民関係各界の努力により復旧を遂げ、 新しい神戸港に生まれ変わりました。
 港の周辺には、 それぞれの時代の史跡や碑が多く見られます、 それらをシリーズで紹介したいと思います。

神戸ポートタワーと神戸海洋博物館

神戸港の観光スポットとして、 ハーバーランドと並び人気の高いメリケンパーク、 ポートタワーは中突堤に昭和38年 (1963年) 開設された。
その後、 中突堤とメリケン波止場の間を埋め立てて、 神戸開港120年を記念して、 昭和62年 (1987年) メリケンパークと共に神戸海洋博物館が開館した。 帆船の帆をイメージしたという白いスペースフレームの屋根の建物とポートタワーの赤とのコントラストが美しく、 神戸港のシンボルになっている。
 ポートタワーには展望室、 スカイティールーム (20分で360°一回りする) があり、 六甲連山から神戸市内、 神戸港全体や遠く淡路島・紀淡海峡付近まで一望できる。
 神戸海洋博物館には 「海・船・港」 が総合的に展示されており、 神戸港の歴史や、 施設の情況などがよく分かる。 (何れも入場料、 大人600円)

神戸港震災メモリアルパーク

 阪神・淡路大震災で被災したメリケン波止場の内、 約60mの区間をそのままの形で保存、 レトロな街灯が痛ましい<保存ゾーン>と、 神戸港の被災と、 その復興過程を映像や写真で紹介した<復興ゾーン>が併設されている。


港の碑 (1) 網屋吉兵衛の顕彰碑

 神戸の京町筋を南へ下り、 国道2号線から京橋をわたると、 新港第一突堤基部の緑地の北角に、 顕彰碑が建てられている。 この顕彰碑は、 神戸港の開港より13年前の安政2年 (1855年), 私財を投じて船たで場(ふなたでば )(船底の貝殻や舟虫などを焼く場所―現在のドック) を造り、 ために寄港する船が増え、 開港場としての神戸港築造のきっかけをつくったともいえる網屋吉兵衛氏 (天明5年1785年〜明治2年1869年) を讃えるものである。
 碑文には、 文久3年 (1863年) 時の将軍徳川家茂公が小野浜に上陸の際 「この地は港に最適です」 と進言、 後年この船たで場は、 勝海舟の幕府海軍操練所となって、 神戸港の夜明けを迎え、 今日の繁栄の基礎となったとある。 また、 市民の碑として、 多く市民の浄財にて建立された。

港の碑 (2) 海軍操練所跡記念碑

 中央区新港町―京橋―
 神戸の京町筋を南へ下り、 国道2号線の先に京橋があり、 その東側に碑がある。 当時の神戸商工会議所の南西角に昭和34年 (1959年) に建立された。 平成3年 (1991年) 一次撤去されたが、 平成13年 (2001年) 跡地を買い取った民間会社によって復元された。
 碑に刻された由来を要約すると。
・万延元年 (1860年) 幕府は遣米修好使節団を公式に派遣した。 その際勝海舟は、 咸臨丸艦長として、 万里の波浪とたたかいながら、 一行の護衛と海洋技術習得の大任を果たした。 これ日本人による最初の太平洋横断であり、 わが航海史上の壮挙である。
・文久3年 (1863年) 攘夷の世論ようやく急を告げ、 将軍徳川家茂は摂海防備の為、 阪神海岸を巡視した。 当時海舟は軍艦奉行並の職にあって、 これに随行し、 当地は天然の良港であり、 国防の要港であると力説、 かくて、 ここ小野浜に操練所の創設をみた。
・この海軍操練所は、 兵学校、 機関学校、 海軍工廠を総合したような組織であった。 日本海軍の礎を築き、 海外発展の基地をつくろうとした。 その高風を仰ぎ、 来たり学ぶ俊英二百を数え、 陸奥宗光、 伊藤祐亨、 坂本竜馬など有為の人材を輩出した。
・元治元年 (1864年) 海舟は、 禁門の変に操練生の一部が反幕軍に参加したため、 激徒養成の嫌疑を被って、 解職され操練所もまた翌慶応元年 (1865年) 3月、 ついに閉鎖されるの止むなきに至った。
・当時は、 この記念の錨から東へ長く広がり南は京橋詰めから税関本庁舎を望むあたりの長方形の入江堀約一万坪の一帯であった。 惜しくも現在では、 阪神高速道路の下に埋め立てられて、 当時の盛観をしのぶ由もない。
そして末尾に、 「今はただ、 遠く諏訪山公園からこの地を見守る勝海舟直筆の碑文を仰ぐことのできるのが、 せめてもの救いであり、 ここに当時を偲び郷土を愛する人々に、 この記念の碑をささげる」 とある。
*諏訪山公園は、 桜の名所であり、 諏訪神社や、 ここから北の山腹に錨と市章が並んでいることで有名で、 若かりしころ何度か登ったことがあるが、 碑については、 かすかな記憶にあるのみ、 確かめるべく訪れてみた。

港の碑 (3) 海軍営之碑

 JR元町駅のすぐ東側にある南北に通じた道路を「鯉川筋」と言う、 移民の道路としてもよく知られている。 北は異人館で有名な山本通りで、 その交差する近くに、 ブラジル移民・神戸移民収容所があった所である。 そこから西に約600米のところに、 諏訪山公園金星台への登り口がある。 そこから約300米の細い山道をのぼると高台 (上空から見ると星の形の広場という) に出る。 その高台の山側に金星観測の記念碑があり、 その背後に神戸港を見守るように、 風雨にさらされ、 碑文は読みにくくなっているが、 勝海舟の直筆と言われる「海軍営之碑」がたっている。



*金星台の由来
 明治7年 (1874年) 12月、 太陽と金星・地球が一直線に並ぶ「金星の太陽面通遇」という現象をフランス人天文学者ジャンセン氏らがこの地で観測したことから、 金星台と呼ばれるようになった。 又、 ここから10分ほど登ったところに、 再度山ドライブウエイのビーナスブリッジの名前の由来にもなっている。
 JR元町駅から鯉川筋を南へ歩くと、 左側に大丸デパート、 西側には元町商店街入口、 中華街入口があり、 更に進むと国道2号線と交わり、 突き当りがメリケン波止場入口からメリケンパークへ、 東側に「みなと公園」や合同庁舎などがある。 そのみなと公園に、 勝海舟の海軍営之碑と陸奥宗光公を讃える碑が並んでいる。
        

海舟は元治元年 (1864年) 操練所構内に「海軍営之碑」を建立せんとしたが、 碑が出来上がった直後、 軍艦奉行と操練所長を解職され江戸に召還されたため、 神戸村庄屋・生嶋四郎太夫に、 どこかに埋めるように命じた。 それを生嶋は廃棄するにしのびなく、 ひそかに奥平野の己が別邸に運びそこに建てていたが、 大正4年 (1915年) に有志によって、 諏訪山の金星台に移された。
 そして、 金星台に現在の碑を模して、 海軍操練所ゆかりのこの場所に昭和48年 (1973年) 5月建立された。 (参考引用資料=兵庫県大百科事典、 神戸開港百年史)
                                                             神戸支部長 東  功