投稿              現役パイロットの方々から

          

ハ ー ド と ソ フ ト             出 口 彰 男  (富山 N52期・伊良湖三河湾水先区・水先人)
ゴルフ奮闘記                阿 波 恒 生  (広島 N63期・伊良湖三河湾水先区・水先人)
海と港で働ける苦しみと喜びについて 三 浦   稔  (富山 N52期・内海水先人会・水先人)


   
ハ ー ド と ソ フ ト

                                出 口 彰 男
                             (富山 N52期・伊良湖三河湾水先区・水先人)


 ここ 10 数年無かった執筆意欲に俄かに誘われて一気に書き上げたものがあります。 息子がこんなものもう要らないから処分してよ、 と言った私が買ってやったワープロを勿体ないと引っ張り込みポトポトやった末の文章でした。 ろくに読み返しもせずせっかくだからと校正編集してもらおうと、 身近にいた PILOT 誌編集委員に持ち込んだら、 原稿は間に合っていて次次回に使わせてもらうかもとのことでした。 ともかくそれで憑物がおちて日常生活にもどったら、 10 日もせぬうちに 「全船協」 からの思いもかけない執筆の依頼が舞い込みました。 文章といったら若い頃、 書けといわれて出したものと航海士/船長として不承不承提出した報告書ぐらいなものだったから困りました。 いっそのところ PILOT 誌から取り返し送ろうかとも思いましたが、 その続きと書き足らなかった事も整理する必要があるなと要請に応ずることと致しました。 しかしながら今回は読者を意識しますし、 原稿料があると書き添えてあったりしたので肩に力が入りそうです。 まずは題名から一見高尚そうなのを付けてみました。
 さて、 12 年前の私は、 VLCC の船長として調子の悪かったエンジンがドックで完全に直ったと聞いて心のそこから安堵したものです。 当時ボロエンジンのせいで昼夜の別無く働かせられ苦労した乗組の感想は、 もともとタービン2軸船として就航し何の問題も無くそれなりに会社の収益にも貢献していたのを、 オイルショックもあったりして馬鹿でかいボイラーを残した狭い機関室に、 2軸用のディーゼルエンジンを押し込んだ主機換装そのものに無理があったのでは無いかというものでした。 競争力向上に焦った会社の勇み足というわけです。
 ドック中にはもう一つの大きな変化がありました。 フィリッピン乗り組みとの混乗の開始です。 安全を至上命題とする VLCC には、 もっと先の話だろうとの予測が外れたのです。 安全にやりますから高い運賃を頂きたいといったのに、 何いってんだよエンジンのせいにしてチャンと運んでいないじゃないか、 せめてもっと安くしてよとの荷主さんの圧力に屈したせいに違いありません。 確か VLCC への混乗は本船が始めての筈でした。
 ドック前の航海で、 旺盛な使命感を持ってテキパキと問題処理に当たり、 次々と職人技を発揮しつつ実行したチームが去っていきました。 特に感動を覚えて記憶しているのは、 揺れる船上で陸から届けられた重いピストンシリンダーを、 ろくに装備も無い船尾の開口部から機関室に運び込み飛行機といわれる技で宙吊りにしてピタリと収めてくれた事でした。 泥棒ワッチ兼皆の酒のつまみを用意すると称して魚釣りなどしつつオロオロしていた私が残り、 優秀な乗り組みが去っていったのです。 ハードは良くなったけれどソフトの危機に直面したということになりました。
 混乗そのものについては韓国人乗り組みの中に、 船長として機関長と二人乗り込みペルシャ湾から東廻りで一周してペルシャ湾に航海した雑貨船と、 フィリッピン乗り組みがいた地中海航路のコンテナ船の経験がありましたから抵抗感は無かったのです。
 混乗を開始したとはいえ、 会社は慎重で日本人 12 人を残し 17 人のフィリッピン人という大所帯となりました。
 もう機関のほうは大丈夫と言う事で乗り出した航海だったのですが、 マイナーとはいえ故障が続出して修理のためストップする事が度々ありました。 原因としては造船所のミス、 又は手抜きとしか考えられない事が多かったのには腹が立ちました。 当時は造船不況で経営立て直し手段と称してリストラの嵐がふきあれていて、 多くの熟練工が去っていった時期でした。 ドック以前と変わらぬ位の作業量がまた乗組員にのし掛かって来たのです。 最初に現れたのは機関長を通してのフィリッピン人ボス格であるフィッターの食事に対する不満でした。 フィリッピン式食事がとりたいというのです。 コック長は日本人でレパートリーも広く熱心に仕事に打ち込むタイプでしたし、 なによりも他のクルーからは賛辞はあったが不満は聞いていませんでした。 ある程度の考慮は払うが、 材料の問題もあるとその場は収めたのです。 コック長の落胆と焦燥は気の毒な程でした。
 いろいろゴタゴタが続きながらも積み荷終了し、 ペルシャ湾を出た直後またエンジンがトリップして止まりました。 片エンジンが使えることが判明しソロソロとフジャイラ沖に至り、 そこで錨を入れ修理に取り掛かりました。 またもや不眠不休の作業となったのです。 幸いなことに自力修理可能で一昼夜程で航行を再開することになりました。 縁起直しにと全員ではちゃ目茶パーティーを開いた翌日、 件のフイッターとオイラーそれにセコンドコックの3人が下船願いを持ってきました。
 この度の混乗に当たっては外国船の経験の長い、 特にタンカーの実績のある優秀なクルーを引き抜いて来たと言う事であり、 フイッターは統率力もあり技量もしっかりしていると機関長の評価の高い男でした。 フイッターを除く2人は契約違反だし経歴に傷がつくよ、 それに帰国旅費は自分で出してもらはなくてはならない、 との説得に応じ下船願いを取り下げました。 その後にも一昼夜程度の機関停止があったりして、 荷主さんとの間もギクシャクしてきてしまいました。
 そこで聞こえてきたのは帰国したら然るべき所に訴えて、 裁判にしてやるとフイッターが言っているとのことでした。 管理能力に対する一大事です。 部屋に呼んで二人でいろいろ話してみましたら、 外国船ではいろいろ任せてくれてやりがいもあったが、 本船では目的は同じでも手順や作業配分を巡って機関部内で浮き上がり、 何よりも怒って命令されるのには我慢出来ない、 更に、 海上生活でそれなりの蓄えも出来、 自動車整備工場を友人と立ち上げたばかりのところへたっての頼みで乗ってきたのだ、 とこの誇り高い男は言うのでした。 かくて和解成立し惜しい人材は自費で去って行きました。
 結局、 揚げ切り後、 再度ドックに入ることになり主機換装をした造船所に変えて広島で年末年始を送り完工。 瀬戸内海に乗り出したと思ったらブラックアウト。 ごく短時間だったので大事には至りませんでした。 幸先の悪いスタートで心配しましたが、 機関の順調な運転とともにムードも良くなり積み荷も無事終了しました。
 積み地はラスタヌラで真夜中の 0010 時、 出帆して北西の強風だった事もあり早目にパイロットに降りられてしまいビクビクもので、 やっと水路の中央に乗せスピードが制定した時でした。 突然電気が消えブザーや警報がけたたましく鳴り響きました。 舵は利きませんし、 ジャイロはひっくり返りました。 悪い事は重なるもので、 2隻の VLCC が水路をこちらに向かっていてそれもかなりの至近になっていて、 直前の当て舵のせいでその方向に突き進む形になってしまったのです。 直ちに緊急通報を発して全員が担当部署にすっとんでいったのですが、 衝突大災害軽くても水路を外しての乗り上げを覚悟せざるを得なかった一瞬に電気が復旧各部が正常に動き始め立て直しに成功しました。 その間、 近くの船は喫水が浅いこともあり、 大きく水路を外して避けてくれたりして本当に危ないところでした。
 同じ事がシンガポール海峡を抜けた広い所でもう一度あり、 すっかり腹を立てた私が機関長を詰問したら、 原因は判然としないが操作上のミスの可能性が高い、 今後は発電機を並列運転とするので多分大丈夫とのことでした。
 釈然としなかったのですが、 ハッと気付いた事がありました。 船長と機関長を除いた日本人スタッフの全員が航海・機関両方の資格を持った優秀マンばかりだったのです。 中には併せて無線の資格まで持っている者までいるありさまです。
 天測技術と積み荷技術に自信満々で、 ブロークンながら英語が話せればマズマズ海上生活が送れると思っていた私に、 まだまだ足りない所が一杯あると実感させる日本人スーパーマン達に取り囲まれていたのでした。 それでもめげないでソフトの一部と信じ込んでいるマージャンや鍛えた酒の席に誘い込もうとしたのですが、 時が経つにつれてただ酒を喜ぶフイリッピンクルーの方が多くなるという有様でした。 何をやっているかと言うと私の嫌いなマニュアルを読んだり、 部屋に閉じこもって何やらカシャカシャやっているのでした。 閉口したのは歌を歌わせると訳の判らないセカセカ歌を聞かされる事で、 演歌世代と全く違う人種がそこにいたのです。
 ともかく疎外感を感じながらも、 その航海は無事終了し気鋭の若い船長と交替して下船となったのでした。 それからだいぶ経って、 件の船長に会う機会があり恐る恐る如何でしたか、 と聞いてみましたら、 ハードもソフトも順調で何も問題が無かったと言うのです。 全くの所、 キツネにつままれた面持ちになったものでした。 もう完全に致命的な欠陥が私にあると判定せざるを得ませんでしたが、 なおVLCC とコンテナ船の2隻混乗船に乗りお払い箱となりました。
 今は照一隅を由としてポート、 スターボードの世界に限って各国の船乗りたちに職人技を見せつけ、 且つそれに相応しい態度と風貌を身に付けようと努力しております。
 それにつけても日本人船員が少なくなり、 あのスーパーマン達に会えないのはどうしたことでしょうか。 ハードが未だみすぼらしいロシア船、 また一方の大国米国船は 100 隻を切ったと言い、 古い船を使い続けておりタラップが降りるのに優に 30 分はかかるヨタヨタ船員と、 作業ぶりを見るにつけ、 勢いがあり溌剌と陽気なフイリッピン人船員と当たる事が多くなったのを喜んでいるのは私だけでしょうか。

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   ゴルフ奮闘記

                                阿 波 恒 生
                             (広島 N63期・伊良湖三河湾水先区・水先人)

 ゴルフにまるで興味の無かった私が初めてクラブを手にしたのは“りおぐらんで丸”乗船中だった。 NZ航路に転配になったので、 安売り広告を頼りに大阪天満の道具屋でキャディバッグ付きハーフセットを買い求めたのだった。
 NZでようやく土曜日がやって来て、 半舷コンペが始まった。 勇躍コースに出たが、 ただ偏平なヘッドを付けたアイアンでのショットはただの一度も白球が青空高く舞い上がるということは無かった。 この何の変哲も無いクラブでの初ラウンドが花と緑の庭園都市だったのがわるかった。 延々とつづく緑のじゅうたんに鍬を打ち込むのはなんとも躊躇してしまうのだった。
 それより先に手にしたドライバーのソールには頼りになりそうな鼓型の真鍮板がインサートされていたが、 船内の練達者に言わせればヘッドの木目の向きがわるかった。 そのせいでもあるまいがショットは右へ右へと行くばかりだった。
 それでもOB区域がなかったのでみじめな思いをすることも無く、 グリーン廻りには辿り着くのだった。 しかしそこは初心者の挫折の場だった。 これまではスポーツでも何でも全力で生きて来たからしなやかさとやさしさの求められるアプローチには対処できなかった。 グリーンではしかし私はパッティングが得意なのが判った。 キャディバッグの片隅にひっそりと入っていたレフティでも使えそうな真鍮ヘッドのパターのフィーリングがあったのだ。 このパターはつい数年前まで愛用したのだった。  このときの小玉一航士 (現阪神パイロット) には仕事を教わり、 村井三航士 (現関門パイロット) にはゴルフを習った。  
 この年に次男が生まれたのでもう 27 年になる。 これをきっかけに会社の阪神地区の同好会のかもめ会に出るようになったが、 たいていは最下位に名を連ねるのだった。 よきライバルだった現関門パイロットの山川氏が現れたときはブービー賞を貰ったりした。 ひょっとしたらこの逆だったかも知れない。
 大体私の体型はスウィングには向いていなかった。“りおぐらんで丸”の上原船長 (元東京湾パイロット) は長身で身のこなし柔らかなスタイリストで、 ゴルフウエアを身に包んでティーグラウンドに立った姿はまことにダンディだった。 それに反して私は首が短いうえに怒り肩だった。 それでテイクバックのときに左肩があごを押しのけて顔が正面を向けないのだった。
 一つの転機が訪れたのは横浜支店に陸勤中だった。 同僚に前出の村井氏がおり、 のちに本山氏 (現内海パイロット) が加わった。 そして我らの師匠は現九電バースマスターの井上氏だった。 彼等と共に世間のゴルフブームに乗せられてコースに出る機会が増えたのだった。 それで住まいの近くにあったシントミゴルフでそこの売りの一つだったソールの厚いそれ故に低重心のアイアンに買い換えた。 その頃はまだようやくドライバーにカーボンシャフトが付き始めたばかりだったが、 このアイアンはすでにカーボンシャフトだった。 ついでにメタルドライバーも買ったのだった。 新しいクラブを手にし、 ドライバーショットのスライスの量も半減したのでいっそう楽しくなり、 練習場にもよく通うようになった。
 社宅の傍の公園で、 二人の息子を相手にプラスティックボールを打ったりもした。 嫌がりもせずに相手になってくれたので、 一球受けるごとに 10 円の賞金を出した。 このときのことは今でも子供達に感謝している。
 しかし少しも上達しないまま東京本社に転勤することになった。 ある日歓迎コンペの幹事の浦島氏 (現横須賀パイロット) から電話が入りハンディキャップを聞いてきた。 正直に 32 を申告すると、 実力は 36 であろうと言う。 平均スコアから 72 を引いてみるとそんなもんだったのでしぶしぶ承知したのだった。 千葉新日本でコンペが始まり、 コースに出たが、 新しい仕事のことが気になって一つも身が入らなかった。 しかしOUTをあがってみると 47 だった。 昼食時にばれて非難の声があがってきたが、 なかには馬券を買っているので頑張れと言うのもあった。 あれこれと思い悩みながらも終わってみたら、 INも同スコアで初優勝したのだった。 しかし何も気を病むことはなかったのだ。 のちにパイロット修業中に亡くなった甲斐田氏と共にベストグロスだったのだ。 そして実に 10 年の歳月を要して初めて 100 を切ったのだ。
 その後数度の陸勤時や船長での乗船中にプレイする機会が増え、 クラブもいろいろと試しもしたが、 スコアは 100 前後のままだった。 たまに読むレッスン書ではトップの位置のことばかり書いてあったし、 多くのスポーツでは助走が大事だったから、 トップからの切り返しに持てる力を一杯に発揮することから抜けきれないでいたのだ。 しかしパーシモンヘッドのMIZUNO PRO MS−1でドラコン賞を狙えるようになっていたのが一つのなぐさめだった。 この頃たいていのコンペでは年配者のほうがいつもスコアが良かったので自分も歳を取れば自然とうまくなると信じ込むようになった。 歳を取れば努力せずとも力が抜けてくるであろうと。
 時は過ぎ、 齢 50 半ばにしてパイロットになり半田市に住みつくようになった。 ここはゴルフを楽しむ環境に恵まれていた。 近くに定額時間制の練習場があって、 心置きなくウェッジを使ってのアプローチの練習にうちこめるのだった。 ショートコースもあって通ううちにある日のことウェッジがゆっくりと振れるようになっていた。
 昨年のことだった。 多治見CCでコンペがあり、 日頃の練習の成果を見せんと張り切って出かけていった。 ところがあいにく台風の影響で開始が2時間ほど遅れた。 この間アドレナリンが消え失せたのか何時に無くスムーズなスィングができたのだった。 終わってみれば 79 で初のベストグロス賞をいただいた。 およそこの一年前に 90 を切り、 このとき初めて 70 台でまわったのだった。 ようやくスウィングに力を抜くことができたが、 歳と共にパターが苦手になっていた。 これは大いに誤算だった。
 その後は幾度もコースにでたが、 あのときのスィングを思い出すことはできなかった。 もう十分な歳なのに鎮静剤を飲みたくなるほどの日々が続いている。
 そしてテレビでプロのトーナメントの試合しか見たことが無い女房殿は、 なんでそんなに曲がるのか理解に苦しみながら今日もまたふがいない亭主の成績を待ちわびるのだった。

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   海と港で働ける苦しみと喜びについて

                                  三 浦   稔
                                  (富山 N52期・内海水先人会・水先人)


 海と港で働いて、 40 年余りとなる。 現在は瀬戸内海で水先人として働かせてもらっている。
 内海水先人会は平成 13 年9月に、 創立 100 周年を迎えた。

【1】 水先人会の業務範囲は広い。 仮に和田岬 (神戸沖) から乗船して、 部埼 (関門海峡東入口) までの間を水先人業務をすると、 4つのマーチス (大阪/備讃/来島/関門マーチス) に関係する。 また、 3つの大橋 (明石/瀬戸/来島大橋) を強潮流下、 たくさんの漁船群と小型船等に対処して航海しなければならない。
  先般、 関埼 (豊後水道入口) にて、 チップ船に夜間乗船した。 伊予灘を航行し、 深夜、 釣島水道を経て来島海峡に入った。 強潮流 (順潮) で中水道を通過した。 漁船群、 内航船、 そして、 高速のフェリー&フィーダー船等が、 同海峡にラッシュしてくる。 徹夜の操船で、 早朝、 日出時、 伊予三島港沖に接航した。 長時間の操船だけに、 再度、 気持を引き締めて港外で待つ。 タグ・ボートと交信して、 入港着岸する。 船長と握手して、 無事に下船。 上陸すると今までの疲れが 「ドー」 と出る。 しかし、 何とも表現できない喜びと平安に包まれて、 岸壁に立つ気分は爽快である。

【2】 阪神大震災後、 瀬戸内海諸港には、 コンテナー・バースが増加した。 かつフィダー船が増加している。 人口 12 億の巨大/中国は、 世界の工場が集中していると言われ、 韓国、 台湾は急速に経済が回復している。 この隣国と日本間は、 瀬戸内海を経由してたくさんの物流が往来している。
  世界の難所 (来島海峡等) と言われ、 海難事故の危険が満ちあふれている。 この地域は漁業問題 (コマセ網、 イカナゴ2艘曳き、 流し網、 のり、 カキ養殖等) と、 観光と自然、 環境問題など未解決な問題が多い。
  近年、 小型船の性能が向上し、 GPS, ARPA, ECDIS等を装備している船が多くなった。 この為に狭視界となっても船速を落さず無理をして航走する。 過去には強潮流待ち、 濃霧のために錨泊する小型船があり、 安全が保たれていたと思う。

【3】 個人的な船員体験談で恐縮ですが……。 商船学校での厳しい寮生活は 『奴隷・人間・神様』 という階級があり、 人間関係で苦しんだ青春時代で、 この時、 良き本に出会え深い感銘を受けた。 白水社の 『ヒルティ・全集』 で 「幸福論」、 「眠られぬ夜のために」、 「同情と信仰」、 「悩みと光」 のシリーズであった。 聖書を引用して大略 『人生は、 苦しみ、 悩みを通してこそ、 喜び、 又、 光を賜る・・』 というものであった。 以後、 この言葉に励まされている。
  昭和 37 年、 旧大阪商船に入社し、 移民船、 産業見本市船で貨物輸送と異なる人と接する苦労を体験した。
  二等航海士として 10 年間働いた時、 別名 『泥棒ワッチ』 と言われ、 深夜0時前に起床して4時まで当直するので、 揶揄 (ヤユ) された。 小生はタンカーに乗船する機会が多かった。 三峰山丸 (コンピューター・タンカー) を含め、 近代化船で苦労したが、 結局、 混乗船となった。 イラン/イラク戦争時には被爆した。 カーグ島の灯火管制下にてトーチランプで、 原油積切り作業もした。 また、 船長としてイラク/クエート戦争時には日本から防毒マスク (スカッド・ミサイル対策) を積み込みペルシャ湾に航海し、 クエート全域の油井が爆破されて上空に黒煙が立ち上がり砂嵐のようであった。

【4】 昭和 52 年、 陸上勤務となり、 神戸支店で在来船のプランナー (Port Captain) として3年間働いた。 しかし、 一番苦しい体験は、 昭和 61 年 (1986) 西アフリカのナイジェリア国ラゴス・アパパ港にて2年間、 単身赴任したことである。 西アフリカはマラリヤ、 黄熱病そして発病すると助からないと言われるラッサ熱、 デング熱等の熱帯疫病のメッカでもあり、 人口1億人といわれるナイジュリアは治安は悪く、 ドロボウのメッカでもある。
   『FEWAC』 (極東・西阿運賃同盟) の下で駐在船長として2年間現地人 50 名余りを使用して働いた。 任務を無事に終えて生きて帰れたときは、 日本の美しさ、 四季のある自然に対して、 大きな感謝と喜びを抱いたことは、 今も忘れられない。

【5】 現在、 美しく、 かつ厳しい瀬戸内海で水先人として働いているが、 水先業務に従事する前には、 海潮流を調べ水路通報による海図の改補も含めて、 港湾事情をチェックして航海計画、 また、 双眼鏡、 トーチランプ等の装備を点検して乗船する。 深夜、 狭視界での水先業務は、 数倍のストレスと疲労を伴う。
 瀬戸内海には約 3,000 ともいわれる島があり、 また、 祇園精舎の鐘の声……諸行無常の響きあり……の源平合戦の歴史と多彩の物語がある。
  水先人は、 危険と責務は大きい。 前述のように社会環境はますます厳しくなっている。 瀬戸内海の安全航行への環境が整備されることを祈るものである。
  四季の美しい島々を、 苦しさと共に、 心に喜びを持って日々元気に働けるように願っている。

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