連載・随筆  第85回
             日本商船・船名考 (]]]]Y)
             (岡崎汽船・岡崎本店汽船部) 
                                   松井 邦夫 (全船協・相談役)   え・文とも

 太平洋戦争中の昭和17年3月25日、 日本政府は臨戦態勢に即応して戦時船舶管理令を制定、 直ちに公布して翌4月1日には新設の船舶運営会を創立して日本海運の戦時体制を確立した。
 翌18年初頭には閣議決定に依り各海運会社の整理統合が、 政府の戦時特令として発せられ、 それに基づき7月1日三菱商事株式会社の船舶部門を分離独立し、 所有船12隻の三菱汽船株式会社が設立されたが、 その時に神戸の岡崎本店汽船部が所有貨物船6隻を出資船として提供、 三菱汽船と合併して合計18隻の船隊を保有する新会社の発足となったのである。
 岡崎本店汽船部とは、 明治27年に神戸の岡崎藤吉38才の時、 英国船主から中古貨物船を購入し大洋丸と命名して、 個人経営の岡崎汽船を名乗り船舶業を開始したのが始まりである。
 創始者岡崎藤吉は安政3年に、 佐賀藩士石丸六太夫の次男として佐賀で生まれ、 藩校弘道館
で学んだ後上京して大学予備門で修学し、 その後兵庫県庁に奉職していた石丸藤吉で、 兵庫の素封家岡崎眞鶴に認められてその養子となり、 岡崎藤吉として神戸の実業界で活躍した人物である、 と水野勇著 「海事偉人伝」 (昭和60年に日刊海事通信社発行) に紹介されている。
 明治27年8月勃発の日清戦争に当たり大洋丸を政府の御用船として軍務に提供したが、 戦後となり翌28年4月17日、 下関条約により台湾が日本領土となるや、 岡崎汽船では政府の命を受けて所有船大洋丸ほか傭船を投入し、 内地から台湾西岸航路の郵便定期船を配船したと記録されているが、 同32年以降の台湾航路定期船の中から社外船の姿が全く消失せて、 日本郵船及び大阪商船の2社独占航路となったのである。
 その後大洋丸はロシア領カムチャッカ沿岸の鮭鱒漁業出漁期に、 当時露国独占企業ロシアン・シールスキン会社の傭船となり、 同30年から35年まで6季節に渡り函館港への鮭鱒中積輸送航海に従事し、 我が国の北洋漁業開拓創生期に先鞭をつけた船として知られている。
 明治37・38年の日露戦争中には社外船々主会の一員として海外買船に参加し、 英国及び諾威(ノルウエー)船主から中古貨物船各2隻、 計4隻を購入してその第1船には英国船主から購入の英国建造船で、 日英丸と命名、 次は日進丸、 日勝丸、 日海丸と名付け直ちに陸軍御用船として提供した。


 日露戦争後の明治40年に至り船腹過剰による海運の反動不況の際、 日本郵船が従来から運航していた、 神戸・北海道間日本海経由西廻航路に対する政府の航路補助金が廃止となった時、 岡崎汽船はすかさず同航路一切を継承し補助金不用の運航を企画、 所有汽船日東丸、 日英丸、 日進丸の3隻と、 岸本汽船から神幸丸と神威丸、 辰馬商会の旺洋丸と第5辰丸の計7隻の就航船により経営の日本西廻汽船商会を設立した。
 この会社は岡崎汽船を中心に三社合同配船の方式で運営し、 永年の荷主から絶大な歓迎を受けて開設したが、 1年後には岸本汽船が脱退し続いて辰馬も脱落、 その後は岡崎汽船単独経営となり大正6年9月まで、 約10年間に渡り営々として配船を継続し顧客の期待に応えていた。
 その間明治43年3月4日岡崎藤吉は個人経営の事業一切と、 日本西廻汽船商会の総てを継承して資本金30万円の岡崎汽船株式会社を設立、 新会社組織に変更したが幸いにもその後、 第1次世界大戦の勃発となり、 海運業界は味曽有の好況を迎え持ち船売却による莫大な利益の計上や、 逆に他社整理船を低廉価格で再購入するなど、 大正7年には資本金を70万円、 100万円と続いて増資して社業の基盤を固めたのである。
 初代岡崎藤吉は大正6年に神戸岡崎銀行 (後の神戸銀行) を創設しその頭取となり、 又神戸海上運送火災保険会社の社長も歴任し、 更に同14年には貴族院議員に選出されて国政にも参画し、 神戸財界の雄と呼ばれた傑物である。
 大正12年に至り政府の指導による定期船補助航路拝命の機会があり、 岡崎汽船では早速横浜、 大阪、 神戸、 門司から中国天津線と大阪、 神戸、 門司、 博多から遼東半島営口線の主要中国航路2線の定期運航補助の受命に成功した。
 新航路開設に当たり岡崎汽船では天津線用に国内船主から吉備丸と八千代丸を買船し投入、 月2航海の定期配船を実施し、 太平洋戦争開戦後に至るまで運航を継続したが、 その間同11年3月には吉備丸を日津丸、 八千代丸を日京丸と改名して岡崎汽船のドル箱船と言われていた。
 その後昭和12年に岡崎汽船は岡崎合資会社と業務を統一し提携合併となり、 岡崎本店汽船部と改称したが丁度その年7月、 日中戦争が勃発し荷況の急速な伸展で順調な経営を継続した。
 昭和18年7月1日三菱汽船に移籍の岡崎本店汽船部の6隻の内、 戦後に生き残った唯一幸運な船日京丸は、 また長命な船で戦時中の苛酷な環境の下で、 魚雷攻撃や空爆の危険に曝され乍ら船舶運営会所属の日中航路に就航活躍した。
三菱汽船の戦標型建造船を含めた所有船総数38隻中でも戦後に残存した僅か4隻の幸運な船の1隻で、 戦後も船舶運営会所属で磁気機雷の危険な海を物資輸送に従事し、 北海道や九州の石炭航海、 中国秦皇島への炭坑用坑木や複荷の石炭輸送、 続く沖縄復興用のセメント輸送等に就航して黙々と働き続けた船である。
 戦後の昭和24年4月1日民営還元が実施され各社の残存船は次々に返還となり、 その時三菱汽船は三菱海運と改称され、 同9月に岡崎本店汽船部も後身会社日豊海運を創設して、 日京丸を移籍し往年の岡崎汽船栄光の基盤とした。
 その後も日京丸は引き続き三菱海運の傭船として活躍後、 31年4月日豊海運から扶桑海運に売船され、 同年8月来島造船所で主機換装工事が施工されディーゼル機関を搭載、 船体も以前の三島型から長船尾楼型に改造され、 荷役装置等の諸設備も新しく近代化されて生まれ変わった日京丸となり、 近海航路に就航したが6年後の同37年に船齢44才の時、 インドネシア船主に転売され、 それ以後の消息は定かではない。
 岡崎汽船の所有船には前頁一覧表の通り殆どの船に 『日』 を頭に付けた船名が特徴となって居り、 戦時中岡崎出身の長老に日津丸と日京丸の船名由来を尋ねた時、 返事はいとも簡単で、 「日本・天津で日津丸、 日本・北京で日京丸なり」 と言う語り草であった事が思い出される。
                                               (この項終り)
                                               (船舶企業椛樺k役)
 
 岡崎藤吉・日本西廻汽船商会・岡崎汽船・岡崎本店汽船部 
                      所有船一覧表
 船名  旧船名 総トン数  建造年月日
 場所
   備  考
たいようまる
大洋丸
NINGPO 1,270 1873年
英国
明27年買船、日清戦争、
日露戦争に陸軍御用船
にちえいまる
日英丸
CELEBES 2,323 1883年
英国
明38年買船
日露戦争に陸軍御用船
にっしんまる
日進丸
WINCLAND 2,725 1883年
英国
同上
にっかいまる
日海丸
NOR 1,684 1888年
英国
明38年諾威船主より買船。
陸軍御用船
にっしょうまる
日勝丸
HERMES 1,480 1896年
英国
同上
にっとうまる
日東丸
BELLHORN 2,223 1880年
英国
明38年英国船主より買船。
陸軍御用船
にっこうまる
日航丸
KIANGPING 1,699 1883年
英国
明44年、見越輸入船として買船
にっぽうまる
日邦丸
BENMOHR 3,163 1893年
英国
同上
にっしゅうまる
日州丸
LUSIA 2,334 1900年
英国
同上
にちようまる
日洋丸
MARGHERITA 3,263 1900年
英国
明45年改正関税法実施に伴う買船
にっせいまる
日盛丸
AUGUSTI 3,080 1900年
英国
同上
にちほくまる
日北丸
BALINULAS 2,564 1886年
英国
同上
大5 互光海運に売船
にちべいまる
日米丸
SARAMACA 1,421 1882年
英国
大5 樺太汽船に売船
にちなんまる
日南丸
PALLAMER 2,475 1885年
英国
大6 武済汽船に売船
にちうんまる
日運丸
ZEISON 2,311 1880年
英国
大6 新林汽船に売船
にっしょうまる
日祥丸
  2,878 1919年
加奈陀
他社に売船
えいあんまる
永安丸
  1,205 大正5年
大阪
他社に売船
ぎょくえいまる
玉栄丸
  937 大正6年7月
大阪
尼崎汽船に売船
 くみあいまる
第1久美愛丸
  987 大正6年6月
大阪
直江津商船に売船
かしんまる
嘉辰丸
  1,098 明18(1885)
独逸
他社に売船
にちかまる
日華丸
しみず丸 1,266 大7.4
広島、吉浦
他社に売船
(旧名、しみず丸)
 きふねまる
第5貴船丸
  1,618 大7.12
大阪
他社に売船
にちまんまる
日満丸
第2朝香丸 1,922 大6.10
大阪
昭14.8東亜海運へ出資船、
(旧名、第2朝香丸)
にちえいまる
日栄丸
第8万栄丸 1,180 大7.5
大阪
他社に売船
(旧名、第8万栄丸)
 まんせいまる
第3満世丸
  1,146 大7.3
大阪
秋田汽船に売船
にっつうまる
日通丸
  2,183 大6.6
東京
他社に売船
(旧名、安瀬丸)
にちふくまる
日福丸
  1,270 大9.6
大阪
他社に売船
にっしんまる
日津丸
吉備丸 1,179 大5.7.7
播磨造船所
陸軍徴用船、三菱汽船に移籍
昭20.4 戦没 (旧名、吉備丸)
にっきょうまる
日京丸
八千代丸 1,401 大7.7.3
信貴造船所
戦後に残存、昭24、日豊海運に移籍
昭38 インドネシア船主に売船
(旧名、八千代丸)
にっこうまる
日興丸
  3,098 大8.6.10
1919 英国
昭3.英国船主より買船、
昭19.7 セレベス島マカッサルで戦没
にちほうまる
日豊丸
  3,765 昭11.11.9
川崎造船所
(新造船)昭16.8、海軍徴用船
昭19.2.17トラック島で戦没
にちえいまる
日営丸
  2,436 昭14.4.5
浪速船渠
(新造船)昭18.9、海軍徴用船
昭19.9 比島セブ港内で戦没
にちりょうまる
日遼丸
  2,721 昭15.7.17
大阪鉄工、因島
(新造船)昭16.12、海軍徴用船
昭18.1 セレベス島付近で戦没
合計   33隻  66,312トン

   (参考資料)神戸海運50年史(大正12年4月、神戸海運業組合刊行)による。

 1.明治12年から26年までの間に三井物産(7隻)を始め、浅野総一郎(4隻)、広海二三郎
  (4隻)など社外船々主18社の輸入船:       34隻 41,154総トン
 2.明治27年日清戦争中、社外船々主27社、広海、右近、馬場、岸本(各2隻)及び三井物産、
  岡崎、緒明、大家ほか19社(各1隻)の輸入船:  87隻 132,963総トン
 3.明治38年日露戦争中に社外船々主96社、岸本、広海、岡崎(各4隻)、三井物産、三菱商事、
  右近、大家、八馬、松方(各3隻)、緒明、原田、乾(各2隻)、外84社(各1隻)の輸入船:
                                124隻 251,298総トン
 4.明治44年7月、新関税実施直前の社外船々主28社、 岸本(各7隻)、岡崎、原田、八馬
  (各3隻)、乾、板谷、嶋谷、明海(各2隻)、ほか20社(各1隻)による見越輸入船: 
                                 50隻 130,000総トン
 5.明治45年改正関税実施後に汽船会社72社、岸本(15隻)、南満州汽船、大阪商船(各6隻)、
  遼東汽船(5隻)、岡崎、辰馬、乾(各3隻)、原田、三井物産、明治海運(各2隻)、ほか社外船
  々主62社(各1隻)の輸入船:             99隻 313,174総トン  

                            合計   394隻 868,589総トン
                               ◎ 明治時代の輸入船総数