投 稿                                               
                 セイタカアワダチソウ
        
                                          弓削N54 真田 一規

 私の生家の裏に、17の夏原爆で死んだ姉が虎の尾と言って植えた一叢がありました。母は、みすぼらしい背高で小さな花弁を群れて細長くつけるこの草は繁殖力が強く、その一角から外に逃げ出さないようにするのが大変だと言いながら大切にしておりました。
 私は昭和15年2月15日、広島県尾道の北方約4里の山村に生まれました。昭和元年の長男以下3年、5年、9年、12年の姉と19年の弟、祖父も存命の大家族でした。
 長姉のスミエは真面目なおとなしい我慢強い少女で、看護婦になり世のために尽くしたいと言って広島で税務署勤務の兄と同居し通学していたようです。腹を立てることも顔に出すことも余りなく水汲みのブリキのバケツを振ってキィッキイッと鳴らす位が限度で、ワザト意地悪して外で姉がバケツを鳴らすのを聞いて怒った怒ったといって面白がったそうです。

 昭和20年春、兄にも召集令状がきて出征する事になりました。多分大勢の人が集まっただろうと思いますが、父が大きな鯛を使った鯛素麺を大皿に盛り付けながら涙を流したのを不思議に思った事は、何故かはっきり覚えています。
 多分次の日に今は廃線になりましたが尾道鉄道の終点市村まで家から2km位もあるでしょうか皆で歩いて見送りに行きました。歩きつかれてグズッタのでしょう、近所の小母さんにおんぶして貰い今は無くなっている小さな釣り橋を渡って駅に行きました。他にも出征する人があり桜の花が咲いている中を電車は発車して行きました。姉はそのまま尾道まで同行し、呉の海軍に行く兄を立入禁止のホームまで駅員の制止を振り切って走って入り、別れを惜しんだそうです。自分の運命も知らず負け戦に赴き多分生きては会えないだろう病弱の兄の一途に心配したのでしょう。
 入隊直後病気になり江田島の呉側にあった病院に入院し、眼下の泊地で木でカモフラージュした積もりだが上からは丸見えの戦艦榛名が、音戸から進入して来たグラマンにコテンパンにやられるのを見ていた兄は、無事帰還し今も元気にしております。

 広島は空襲は無く安心なんだと普段はおとなしく素直に言う事を聞く姉が、止める親の言う事をどうしても聞かず振り切って広島へ帰り、間もなく原爆に遭ってしまいました。
 広島には今も太田川端で製材業をしている親戚があります。そこに私と同年の幹チャンという男の子がいました。19年生まれの弟もおり何かあった時大変だからと田舎に預けられておりましたが、余りにも泣くので親戚が困り数日前に返されてきてピカにやられてしまいました。外で遊んでいた幹チャンは体中火傷して熱い熱いといいながら息を引き取ったといいます。そのせいもあったのでしょう、おばさんは随分私を可愛がってくれました。
 8月7日か8日だろうと思いますが、暑い午後干した布団の上で遊んでいたら広島商業の学生だった武ちゃん幹チャンのお兄さんが原爆で姉が行方不明になったとゲートル国民帽姿で知らせに来て、庭に直立不動で立っていました。姉達がオイオイ泣くのが何故なのかは良く理解出来ませんでした。多分父はすぐ広島へ探しに行ったのだと思います。
 「学校の跡地の瓦をはがすと下はどれも骨だった、川原では兵隊の死体を積み上げて油を掛けて焼いていたが暑さの盛り腐敗が酷く物凄い臭いがした、橋の上は火傷で膨れ上がった人が水をくれと言い河面を死体が覆って流れていた」と長じて飲んだ時、涙声交じりで辛そうに一度だけ話してくれました。恐らく多くの人が思い出したくもなく、冷静に人に語る事も出来ない胸の奥に燃え渡る思いを抱えながら去って行ったのだと思います。

 被爆手帳を持っていた父は昭和45年1月楽しみにしていた私の長男の誕生を待たず72歳で永眠しました。偶々丹後の宮津に入港中で葬式には間に合いました。病名は心筋梗塞、注視は出来ませんでしたが背中一面赤黒く変色していました。あれは被爆と何か関係があったのでしょうか、しかし誰も何も語りませんでした。
 20年の秋口頃か女の人が尋ねてきて母と話しておりました。顔に大きな傷跡があり恐ろしい氣がしましたが今思うと原爆のケロイドで、生きて帰った姉の同級生か知り合いだった人が来てくれたのでしょう、母はとても寂しそうに俯いて聞いていました。
 花は、兄からにべもなくセイタカアワダチソウだといわれ、母は辛そうでした。それでも母は年若く逝った娘が虎の尾と言って植えた草を、数少ない思い出として余り暴れ出さないように適当に間引きながら、子供の健康を心配する兄から酷く文句を言われても、できの悪い子を慈しむように大切に守り続けておりました。

 7月14日朝日新聞一面、「国連原爆展拒む“理由は写真がむごすぎる”」。オイオイ一寸待ってくれ、日本に戦争を早く止めさせ結果として多くの人を救うために原爆を落としてやった、それで日本人も助かった、と言い募るのはアメリカ人ではないのか。写真はそのまま見せ核兵器の悲惨さ、恐ろしさを多数に知らしめなければなりません。そして次代のより多くの人の生命を救うよすがにでもしなければ、何ら抵抗もしない子供まで焼き殺したアメリカ、それを盟主に今も敵国条項は頑なに守り続ける国連の理論は余りにも身勝手で非人道過ぎます。
 彼らの指導者には我々が日本人である事で罪が存在するとした者もあったやに聞いておりますが今もそのように考える人もあるのでしょうか。彼らの神は、異教徒である我らを、その時々の都合により力次第でどうにでもして良いとされるのでしょうか。
 そういえば布教、救いと言いながら多くの国々を植民地にし国王に捧げる悪行を神の名の元に競って繰り返した事を懺悔したという話は未だ聞きません。オランダはインドネシア人を300万人以上、英国はアヘンの為中国人を間違いなくそれ以上、昨今は毛沢東は1億人スターリンは3千万人殺したと言われはじめました。ドイツは戦争に係りなく民族浄化のもと600万人のユダヤ、ポーランド、ロシア、ロマ(ジプシー)自国民を虐殺しながら、東西統一までは調和に応じないと頑張り、今やヨーロッパ統合の中心になっております。

 人、民族、国、等しく如何に業の深いものか、それでも留まる事の出来ない人間は、理想を説き汗を流していれば認められ救われ許される事もあるように思われます。
 中国高官は30年もすれば日本は無くなる国とまで言い出す始末、それに対し我らが偉い人は何も言えず平伏するのみ、これを見ている若者に愛国心など求める方が無理。ワールドカップで若い人は何の拘りもなく日の丸、君が代で日本代表を応援していました。年寄りが心配する事は無いのかも知れません。
 米帝国主義は張子の虎、中日人民共通の敵に共鳴した若い日もある我々が、知らされなかった大事な事の数々、今回天皇の訪ポーランドでシベリア残留孤児を助け親切に送り返した事を今も感謝し、親日國であるとする報道には驚きましたし、そのうちの一つでしょう。我々年代がお返しの為に暇に明かして勉強し、子供達が自信と誇りを持ちバランスの取れた判断が出来るような情報を、少しでもノミニケーションの場でも発信し日本、ひいては人類発展のお手伝いをしなければと思いますが如何なものでしょう。
 又夏が来て原爆記念日が間近です。昭和60年に法事で帰りましたが、この年地元では50年忌が多かったそうです。若くして逝った人、送った人が余りにも多く50年間も思いを抱いて生きて来た人がもうこれが最後と祀ったものでしょう。

 去る者は日々に疎し、しかし思う人が在る限り人は存在しています。過ぎし時を思う者すらも、大略年の順番に律儀にも彼岸の彼方に連れ去って行ってしまいます。
 埋けてある骨は正しく姉の物かは解かりませんがその思いは未だ山裾の墓地に父や、昭和57年に私がエジプト出張中の僅かな間に律儀にも前日はお寺参り午前には洗濯を済ませ、昼食後慌しく76歳で亡くなった母と共に眠っております。母は良く墓石に熱かったろうと言いながら水を掛けておりました。
 虎の尾はまさしく姉そのもので、水遣りしていた水は年若く灼熱で焼き殺された娘に熱かったろう辛かったろうと思いやる親心、そしてそれが良く解かる年になりました。母の大切な大切な虎の尾も母の死により単なる害草となり駆除されたのでしょうか、その後帰省した折にはもうありませんでした。
 夏はツイツイ思い出す事が多いのは私達にお盆の風習があるからでしょうか。余り見かけなくなったセイタカアワダチソウですが偶に見ると母を思い出します。