商船系水産高校2校に勤務して・・・・受け継がれるもの・受け継ぐもの

                              北海道函館水産高等学校教諭  
                                    我妻 雅夫
                              

           
1 はじめに
私は、大学の水産学部を卒業して、島根県立隠岐水産高校水産製造科に8年、千葉県立勝浦高校漁業科栽培漁業コースに5年、北海道小樽水産高校栽培漁業科に9年、現在、函館水産高校水産食品科職員として14年目を送っています。この度、ご縁があって、全船協の会報123号夏季号に「商船系水産高校2校に勤務しての体験等」の内容で執筆依頼を受け、僭越ではありますが筆を執りました。
2 島根県立隠岐水産高等学校
 1)沿革(以下、島根県立隠岐水産高等学校創立70周年記念誌“おおとり”から抜粋)
  「明治40年、(隠岐国)西郷町に組合立甲種隠岐商船学校設立の件が指定され、航海科25名、機関科15名の入学があり、校長には広島商船学校の杉江吉治が着任。しかし明治43年、廃止を島根県会が決定。」
大正10年4月、隠岐国西郷町外11村組合立「隠岐商船学校」設立。大正11年4月、隠岐商船学校を県に移管して、甲種「島根県立商船水産学校」と改称。航海科には隠岐商船学校を、水産科には浜田の県立水産講習所を移管併合。

  島根県立商船水産学校
大正12年、専修科甲種機関科設置認可。同年11月14日、陸上帆船「満仁丸」竣工。全長30m、巾8m、トン数150トン相当、3本マスト、鉄筋コンクリート製。
大正13年6月2日、ドイツ製水雷艇を海軍省から譲り受け、機関科実技実習に使用。後、寄宿舎として代用。昭和7年7月20日、老朽のため棄却。西郷町(現「隠岐の島町」)立木沖に魚礁として沈め、現在も「軍艦瀬」と呼ばれて、好漁場になっている。 
昭和8年4月、航海科生徒募集停止。昭和11年4月、校名を「島根県立水産学校」と改称。
昭和23年4月1日、学制改革により校名を「島根県立隠岐水産高等学校」と改称、現在に至る。
 2)9mカッター(短艇)
隠岐水産高校は1学年3クラスから成る平均的規模の水産高校です。この規模の水産高校が保有する短艇の数は通常2艇ですが、隠岐水産高校は3艇を保有し、カッター教育に力を注いでいました。その教育の権化ともいうべきものが、1年生全員参加で実施する海洋訓練です。4泊5日の日程で、動力船による曳航なしで島を一周する年もあれば、隠岐海峡60Kmを横断して宍道湖に入る年もありました。
このような環境ですから、水産高校対抗カッターレース大会への代表クルーに選ばれた生徒は名誉なことで、周囲から羨望視されました。私も“門前の小僧、習わぬ経を読む”の例えどおり、在勤中に短艇の指導法、運用法(漕ぐ、帆で走る)を覚え、千葉県立勝浦高校に転勤してからカッター部に係わり、関東地区水産高校カッターレース大会三連覇に立ち合い、更に横浜港開港130周年記念カッターレースに千葉港代表として出場したクルーが優勝するという幸運に恵まれました。
2)校歌
隠岐水産高校の校歌は、戦前も戦後も同じ校歌です。開校当初、校歌がなかった島根県立商船水産学校は、2代目校長である海軍予備役少将「島内桓太」先生のお声がかりで、当時、国漢を担当した若き青年教師、「瀬島亮」先生に「先生、校歌は学校の顔です。先生、作詞していただけませんか」ということで校歌を作ることになりました。瀬島先生は全身全霊を作詞に傾け、できあがった詞を校長に渡し、校長は昔なじみの文人中将「小笠原長生」に添削を頼みました。中将からは「もう少し質実剛健な海国男児らしいものに改めたがよいと思う」という指示があり、詞の練り直しが行われました。2回目に添削に出した歌詞が現在も歌い継がれている隠岐水産高校校歌です。作曲は海軍軍楽隊。
   今回この文を認めるに当たって、隠岐水産高校創立70周年記念誌“おおとり”を読み直し、驚いたことがあります。それは、瀬島先生の寄稿文中に、「当初は第四聯の第一句が“島根県立隠岐商船水産学校の・・・”となっていたが、航海科の廃止と共に現在の“島根県立隠岐水産高等学校の・・・”となった」という文です。今回、この執筆を機に、今まで読み飛ばしていた貴重な内容を知ることができました。
   私事ながら瀬島先生の思い出を。私が千葉県へ転勤する時、出雲市にある先生宅に招かれ、最後は中国自動車道のジャンクションまでご案内いただきました。別れ際に、「我妻先生は、人情豊かな隠岐を離れ、なぜ、垢にまみれた都会人の中へ行くのか・・・」という先生の言葉が忘れられません。
3)机上操帆訓練用模型帆船

 現存する机上操帆訓練用模型
隠岐水産高校には、全長1m強のブリガンティン型模型帆船が残っています。この模型以外の教材模型帆船の有無を調べるために、元隠岐水産高校校長の菊池良兵先生に電話を差し上げたところ、隠岐水産高校には大人が肘を掛けて入れるくらいのビーム巾を持った模型帆船があったという話しをしてくださいました。湯船くらいの巾を持った模型帆船となると、とても大きく、先生の話しによれば、この模型のマストの高さは体育館の天井に達するくらいだったということです。「この模型の写真はありませんか」と尋ねたところ、「写真は見たことないが、隠岐水産高校の漁業倉庫にしまってあり、我妻さんがいた頃もあったはずだ」ということで二度びっくりしました。この模型は、保管場所であった漁業倉庫の火災で焼失したようです。現存すれば、後述する函館商船学校の「北光丸」に優るとも劣らない教材模型として注目されたと思われます。


4)学校の旗

 現存する優勝旗
隠岐水産高校の校長室には、「優勝 島根縣立商船水産学校」の文字が入った旗が現在も飾ってあります。何の種目での優勝かは不明ですが、隠岐の島は隠岐古典相撲が今に残る相撲が盛んな所なので相撲でしょうか。余談ですが現役関取“隠岐の海”は隠岐水産高等学校漁業科の卒業生であり、大相撲入りを決意する前は専攻科進学を希望する優秀な生徒だったと聞いてます。
5)卒業生
   島根県立商船水産学校の卒業生では、航海科2期生の中川秀恭先生を紹介します。先生は、呉海兵団に入団の後、日本郵船の四等航海士として乗船していましたが、学校指定の神戸の宿に来て、後輩に「俺は停泊    現存する優勝旗
中、荷役監督もろくにしないで本ばかり読んでいるので、船長の受けが悪くなかなか三等航海士にプロモーションしない。船乗りを辞めて大学にいこうと思っている」と言って、その後、東北大学を卒業後、北海道大学教授を経て、国際基督教大学の学長を務めました。先生は隠岐水産高校70周年記念式典で記念講演をなさいました。残念なことに、私はバザー担当で先生の講演を拝聴することができませんでした。
   次に、オリンピックと関係する卒業生をふたり紹介します。
   9期生の横地治男氏(製造科卒)はペイント会社を興し、私財を投げ打って柔道、相撲の英才教育を行いました。特に世田谷に開いた私塾「講道学舎」には、全国から柔道の俊英を集め、塾生と生活を共にし、塾生の生活費一切を私費でまかない、この中からオリンピック柔道の金メダリストを多数輩出しました。
   10期生の宮田隆氏(製造科卒)は東京オリンピックで三波春夫が歌った「東京五輪音頭」の作詞者です。また、宮田輝アナウンサー司会で人気があったNHK「ふるさとの歌まつり」の主題歌“ふるさと音頭”の作詞も手がけました。氏は在学中、瀬島先生の薫陶を得て、校歌に匹敵する隠岐水産高校の愛唱歌“水産歌”の作詞も手がけ、現在も歌い継がれています。♪嗚呼蒼海の夜は明けて 雄叫ぶ潮のどよめきに・・・と始まる水産歌は校歌と並んで私も大好きな歌です。
3 函館商船学校

 現存する函館商船学校校舎の石垣
 1)沿革(以下、「函館商船学校−その歴史と廃校の考察−」木宏二著による)
明治12年 2月 15日 小林重吉ら船主42名が函館に夜学の「私立商船学校」を開校
明治16年 5月 28日 函館県に移管し、県立函館商船学校となる
明治19年 1月 26日 .北海道庁立函館商船学校となる
明治20年 12月28日 .逓信省立函館商船学校となる
明治23年 5月 . 5日 官立東京商船学校函館分校となる
明治34年 12月 1日 北海道庁立函館商船学校となる
大正13年 6月 .9日 七重浜に移転。その後昭和10年3月31日の廃校まで続く。   
「函館商船学校−その歴史と廃校の考察−」の中で著者の木宏二 氏は、「東京高等商船学校と共に最古の歴史を誇る函館商船学校が、神戸に新設された学校より早く高等商船学校になっていても少しもおかしくなかったのである」と結んでいます。
2)校 歌
   函館商船学校は昭和10年3月31日に廃校になり、翌日、現在の函館水産高校の前身、函館水産学校が開校しました。水産学校は、商船学校の敷地・校舎・備品全てと、生徒・教員の一部を引き継ぎましたが、さすがに校歌だけは新しく作りました。作詞は相馬御風(早稲田大学「都の西北」の作詞者)。作曲は信時潔(「海ゆかば」の作曲者)。歌詞の中に、「縁こそ深けれこの学舎に・・・」という件があります。私は、今までこの詞の意味を(在学中の上級生と下級生との深い縁、恩師との深い縁を結んだ学舎)と捉えてきましたが、そうではなくて、商船学校から引き継いだ学舎という意味ではないかと思うようになりました。相馬御風は、函館水産高校は函館商船学校との縁を忘れてはならないという意味を込めて作詞したのではないでしょうか。
さて、肝心の函館商船学校校歌です。現在、歌詞は全て判明していますが、楽譜は半分しか見当たりません。函館水産高校は函館商船学校校歌の楽譜を探しています。楽譜が見つかれば、ピアノ演奏や本校ブラスバンドによる演奏、生徒による合唱をCD化して、長く函館商船学校を顕彰する考えです。
3)巨大机上操帆訓練用模型帆船「北光丸」

 北光丸(横浜港大さん橋ふ頭)
函館水産高校には、全船協が創立50周年記念事業として完全修復の上、横浜港大さん橋ふ頭に展示した「北光丸」がありました。戦後、函館水産学校校舎が米軍に接収されて、48時間以内の明け渡し命令により、優美な「北光丸」はマストが切り倒され、大八車に乗せられて東川国民学校へ。その後、弥生国民学校(現函館市立弥生小学校)へ二度引っ越ししました。接収解除後、北光丸は再び現在地の校舎に戻ってきましたが、    
その時、北光丸の姿はズタボロ状態で、その後、長く校舎片隅に捨て置かれる運命を辿ります。昭和56年、このような状態の北光丸は、練習船「大成丸」(橋本進船長)により函館から横浜に運ばれ、全船協と横浜・函館双方の関係者の力で蘇り、本邦商船教育のシンボルとして横浜に展示されるのです。
4)学校の旗

弥生小学校で発見された校旗

竣工当時と伝わる北光丸

北光丸に掲げた校旗レプリカ
函館商船学校の校旗は、前述の校舎接収に伴う引っ越しで長い間行方不明でした。ところが、平成21年、函館市立弥生小学校解体工事に伴う調査の最中、弥生小学校から函館商船学校校旗が発見されました。旗は正式に弥生小学校から本校へ移管されて、現在、本校で大切に保管しています。
また、平成22年、本校の修学旅行団が横浜を訪れた際に、北光丸ミズンマストトップに旗を掲げました。この時に掲げた旗(レプリカ)は、大正2年に北光丸が完成した直後に撮影されたと伝わる写真から図柄を調べて復元しました。旗の図柄は、旭日模様の中にコンパスカードとアンカーを配置した、帝国海軍の軍艦旗を彷彿させる図柄であることが判明しました。
「旗」と表現しましたが、実は校旗だったのです。このことが判明するきっかけは、昭和10年に函館の紺野写真館が撮影・上梓した「北海道庁立函館商船学校第三十一回卒業記念写真帖」の中にありました。写真帖の中に、この旭日模様の旗の写真が掲載され、「校旗」と印字されていたのです。
尚、この写真帖は紺野写真館のご令嬢、田村和子さんから練習船「海王丸」船長を通じて全船協に届けられ、全船協のホームページで全ページ閲覧可能です。
   
弥生小学校で発見された校旗      竣工当時と伝わる北光丸      北光丸に掲げた校旗レプリカ
5)日本最初の帆船レース開催
   函館商船学校開校直後の明治13年6月20日、函館船籍或いは函館を定係港とする西洋型帆船(スクーナー)による帆走競技が函館商船学校主催でおこなわれました。今でいう「帆走指示書」に相当する「心得書」が各船に配布され、片道2マイルの往復コースによるレースでした。このレースは開拓使(後の北海道庁)が出した「今後、500石以上の帆船を作る場合は西洋型船とする」という通達をPRするための政治的色合いの濃いレースでした。このレースを見ていた北前船の水主たちは、スクーナーの性能のよさに驚いたようで、PR効果は十分だったようです。
また、このレースの優勝賞品は英国人ブラキストンが提供した晴雨計で、時価300円という超高価な賞品でした。このレースはその後も開催されましたが、ブラキストンの離日と時を同じくして開催されなくなりました。
6)卒業生

招魂碑(函館高龍寺)
   函館商船学校の卒業生では、今東光・今日出海兄弟の父親である今武平氏(外国航路船長)。昭和10年から21年まで、国定教科書に掲載された「久田佐助」船長。2.26事件に民間人として連座した水上源一氏などがいます。尚、函館の名刹、高龍寺境内には函館商船学校招魂碑が建立されています。           魂碑(函館高龍寺)
4 おわりに
   函館水産高校には函館商船学校から伝わる六分儀やロープ標本、海事図書(原書)が現在でもあります。図書については、平成10年代に廃棄寸前まで追い込まれたことがありますが、この危機を救ったのは函館商船学校をよく知る本校機関工学科の教員でした。この先生がいなければ、貴重な図書は廃棄されていたはずです。このように、関心をもって学校の歴史を読み、関心をもって物を見ないと、貴重な遺産がいとも安易に葬り去られます。学校の歴史を知って愛着が湧き、アイデンティティーが育つのではないでしょうか。