船乗りのエッセー (4)
―― 静粛 ――

 
 
                      全船協理事 田中 善治 
                            カット 備後 勲 




 私が昭和30年に入学した商船高等学校は全寮制で、 モットーは 「迅速・確実・静粛」、 その行動指針は 「5分前精神」 だった。 終戦後10年経った当時の世情では、 この程度のことを苦にする者はいなかったが、 一部の者は新しい時代を先取りしたつもりか、 束縛を嫌って反発し、 トラブルになることもあった。 でも、 航海士と機関士を養成するこの高校のモットーは、 卒業して乗船勤務したときの職場環境を考慮したものであり、 後日仕事についたとき、 反発した者も含めて誰もがそれらのモットーの効果を実感するのである。
 古来 「土方・馬方・船方」 は荒っぽくってがさつな職業の代表として 「天下の三方」 などと蔑まれてきた。 しかし、 土方、 馬方、 或いは同じ船方でも渡し舟や作業船の船方はいざ知らず、 陸地を遠く離れて航海する船の船方 (船員) ほど、 これらのモットーを最も厳しく要求される職業はないと思う。 その中で 「静粛」 に拘ってみたい。
       

 航泊を問わず、 「今」 を過ぎれば何が起こるかわからないのが海上生活である。 甲板部では風雨や波の音、 気温や湿度、 雲の流れの変化等の自然現象を克明に読み、 且つ、 船体や積荷の軋む音、 諸々の計装類の作動音、 或いは居住区の様々な生活雑音にも全神経を集中し、 僅かな異常音でも素早くキャッチすることが不可欠である。 30数年前、 インド西岸をLPG船で南下中、 船で造波されたザザー、 ザザーッという音の中に微かにシューという音があった。 右舷に身を乗り出してみると、 船体とほとんど接触せんばかりにして泳いでいる巨大な鯨の潮吹く音だった。 本船は13ノット (時速24キロ) だったが、 鯨は約10分間本船と競走するようについて来たのである。
 機関室当直は、 主機関や発電機が発する大音響、 スーパーチャジャーの耳を劈つんざく甲高い連続音、 種々のポンプやコンプレッサーの回転音等、 それぞれ独特の個性ある音の競演の中、 トーチランプ片手で薄暗い機関室を動き回る仕事である。 しかも、 常時40度を越す猛暑と高湿度、 加えて油やシンナー、 排煙、 ビルジ (淦) 等のミックスした臭気で満たされた密室である。 こんな環境下で一日8時間も就労する職業は他にはないはず。 自動車のボンネットの中よりも数段厳しい環境であろう。 全く会話の出来ない大音響の中でも、 ほんの些細な異常音や臭気などに瞬時に反応しなければ、 取り返しのつかない大事故に繋がりかねない。 それには常に心の中は 「静粛」 でなければならないのである。
 甲板部は自然の静寂の中で、 機関部は人工的に作り上げられた最悪の雰囲気の中で、 それぞれ五感を研ぎ澄ます。 同じ船員でも全く正反対の職場環境である。 因みに機関部員には、 年を経て難聴になるものが多い。
 仕事から解放された私生活でも雑音を発するのは禁物である。 口笛や高歌放吟はもってのほかで、 異常音として忌み嫌われる。 居住区では24時間、 必ず誰かが就寝中であることにも配慮しなければならない。 騒ぎたければ寝室から離れている食堂でドアを締め切り、 他人に気配りしながら静かに騒ぐしかない。 そんな生活を長年続けた船員は皆物静かである。 うるさい船員は嫌われるのである。
(平成21年1月24日)