船乗りのエッセー (3)
―― 校長室の生花 ――

 
 

                               全船協理事 田中 善治 
                                    カット 備後  勲 


 戦後の混乱した世相もようやく落ち着いてきた昭和30年4月、 私は普通高校を一年で中退し、 国立富山商船高校に入学し直した。 早く自分の目標に向かって集中したかったからである。 実家は米と野菜を作る農家で衣食住に困るということはなかったが、 現金収入に乏しく、 入学後すぐ奨学金の申請をしたものの、 なぜか認められなかった。 本科三年間は全寮制で、 授業料と食費を納めると手元には幾らも残らなかった。 土曜日の午後と日曜日の外出許可日に、 月一回の映画と散髪、 それにラーメン一杯を食べるのがやっとだった。
 二年生の二学期、 長期航海実習から帰ってきた先輩に誘われて市内の或る家にお邪魔し、 おいしい茶菓をご馳走になった。 そこは華道未生流と茶道のお師匠さんの家だった。 そして先輩に勧められるままにそこで生花を習うことになった。 月謝はこちらの懐具合を察して安くして下さった。
 毎週土曜日の午後一番に師匠の家に伺い、 正座して指導を受けた。 ほぼ一時間の指導が終わる頃、 女子高校生や勤め帰りの女性と入れ替わった。 師匠ご一家は商船高校生や船員に非常にご理解があり、 時々師弟の関係を離れてよくして下さった。 教材を大事に寮に持ち帰り、 12人部屋に一つだけ置いてあるテーブルの上に、 習った通りに生けた。 男だけの無粋な部屋の潤いになったと思う。
 寮生活は朝6時半の 「総員起こし!」 で始まる。 グランドまたは体育館に駆け足で集合し、 部屋別に整列、 点呼、 国旗掲揚、 体操の後、 皆で寮の掃除にかかるが、 長年の慣行で三年生はほとんど手を出さなかった。 私は7時半の朝食までのこの時間帯に、 寮に隣接している校舎の校長室に生花を生けようと思いついた。 だが校長は勿論、 他の者にも恩着せがましく思われたくなかったので思案の末、 24時間常駐の守衛にだけ話して承諾を得、 実行に移した。
 月曜日の朝6時50分、 生花の道具一式を持って校長室に行くと、 守衛は約束通り黙って校長室のドアーを開けてくれた。 黙礼して部屋に入り、 片隅にあるサイドテーブルの上に手早く生けた。 その間約10分、 守衛は校長室の内外を監視していた。
 花は生き物である。 毎日必ずお世話しなければならない。 かくして本科卒業までの1年間、 月曜日から土曜日まで、 朝食前の校長室通いが続いた。
 5年間の学業を終え、 社会人となって14年が過ぎた昭和49年、 東京・神楽坂で近郊に住むクラスメート7、 8人でミニ クラス会を開いた。 その際、 退職後東京で悠々自適の生活を送っておられた本科生当時のK校長を招待した。 謹厳実直で近寄りがたかったけれど、 学生の誕生月には毎月その学生を自宅官舎に招待して奥様の持て成しのもと、 カードゲームなどでコミュニケーションを図る一面もあるK校長だった。
 宴も終わって帰路、 K校長と一緒に歩いていると、 現役時代を振り返るようにポツリ一言 「君達三年生の頃と思うが、 校長室に一年間も生花を生けてくれたのはどうも生徒らしいんだ。 一体誰なんだろう・・・」