浪曲・古典落語にみる淀の川舟三十石 
 
 
                           愛 知 県 半 田 市 ・ 大 賀 清 史

1. はじめに
 今と違って娯楽に乏しい戦前から昭和30年代半ばにかけては、 ラジオの浪曲ブームでもありました。 それに“火”をつけたのが第二代目広沢虎造です。 師匠が最も得意とした演目の一つは 「石松三十石船道中」 でした。 「森の石松」 は架空の人物ですが、 特に有名な関係する部分を抜書きしてみます。

石松:「呑みネエー、 呑みネエー、 おい呑みネエー、 寿司を食いネエー、 寿司を。 もっとこっちへ寄んネエー、 江戸っ子だってナアー」
客 :「神田の生まれヨ」
石松:「そうだってね、 そんなになにか、 あの次郎長にはいい子分が居るかい?」

 「清水次郎長」 親分が子分の 「森の石松」 に金比羅代参を命じたのが、 文久2 (1862) 年3月半ばです。 上記の会話は、 大坂<八軒家>〜京<伏見>の間、 距離にして10里余りをつなぐ川舟の中でなされたことになっています。 この川舟は、 米を三十石積むことが出来たことから、 普通“三十石舟”呼ばれます。 他にやや小さい 「十石舟」、 さらには荷物専用の 「今井船」 と呼ばれるものもあったようです。 今では、 大阪と京都の間は鉄路で数十分ですが、 汽車が開通するまでは、 この舟便が多くの旅人に利用されたようで、 各種の旅日記にも数多く残されていますし、 上方の古典落語の中にもその風情が描写されております。
 我が国の海上交通の調査をしているうちに、 ふとしたことから、 三十石舟の実態を調べることになり、 面白くて意外な事実がわかってきました。

2. 古文書・絵図からみた“三十石舟”
 わが国には大小3万の河川があり、 それらの多くが昔から輸送路として利用されてきました。 「河川の水運は道作りから」、 と言われます。 と言いますのは、 遡行する時は、 人足が岸から引っ張る所があるのです。 上り“三十石舟”にはそんな場所が九カ所ありました。 ですから、 「登り便」 は歩くより時間がかかったようです。 しかし、 夜行の登り便は、 寝たままで京に着くということから、 かなり人気があったようで、 多くの旅人が利用しております。

 琵琶湖から流れ出す【瀬田川】は京都府内で【宇治川】と名前を変え、 京都市内を流れてきた【鴨川】は、 京都の南で丹波からの【桂川】に吸収され、 山城からの【木津川】と【桂川】が【宇治川】と合流するのは山崎の地で、 この合流点から大阪湾までが【淀川】です。
 歴史に名を残す<文禄堤>は大坂城と伏見城を最短で結ぶためのもので、 完成は1596年。 堤防の上には後に<京街道>と呼ばれる道路が造られました。 この道路上には 「伏見・淀・枚方・守口」 の四宿が置かれました。 淀川はよく水が溢れ、 推古天皇の頃より250回ほど記録に留める洪水を起こしております。 しかし、 ルイス・フロイスがその著作<日本史>の中で既に淀の水運について述べております。

“三十石舟”とは、
【大きさ】5丈6尺の長さ (17m)
【幅】広いところで8尺3寸 (2.5m) の笹葉型

3. 古典落語にみる“三十石舟”
 落語の上方根多 (ネタ) に 「三十石、 夢のかよい路」 という演目があります。 この長い<咄し>は幾人かの師匠によって演じられていますが、 ここでは、 故・桂 枝雀 (かつら しじゃく) 師と弟子の桂 文我 (かつら ぶんが) 師の咄しから引用してみます。

*因みに、 故・六代目三遊亭 円生師などが演ずる江戸落語のこの演目は全く聞くに値しません。

 京<伏見>の舟着き場は、 寺田屋の浜が有名でした。 ここには坂本龍馬の定宿として歴史にその名を残す旅籠“寺田屋”がありました (現在もあります)。 大坂側の起点は<八軒家>でした。 便数は、 昼便と夜便の2便。 乗客人数は28人。 2丁の櫓で棹さしは4人です。
 <大坂より京都迄登船独案内>享和2 (1802) 年版によれば、 上り便の運賃は144文。 下り便の運賃は72文とありますが、 時代により値段に相違もあったようです。
 京<伏見>〜大坂<八軒家>の下り便は淀川の流れにのるため、 上りの運賃より割安でした。
 乗る前には、 舟宿で<宿帳>をつけました。 客数が多い場合は、 二番舟、 三番舟と増便もされたようです。 このことは古典落語の中で描写されております。
 京・伏見には“入り舟”で着け、 寺田屋の浜を離れる時は赤樫の櫂で岸を押し、“艫下げ”で下がり、 川の中央部で反転しました。 離れる時に船頭が舟歌を歌い、 それが聞こえる限りは遅れた者のために戻ってくれた、 とのことです。 <淀>辺りの景色が最もよく、 夜舟の場合は普通、 <枚方>で夜明けを迎えたといいます。 大坂と京の中間<枚方>には停泊し、 客を相手の<くらわんか舟>が客に物をけんか腰で売るのが常でした。
 大坂・八軒家では、“廻し付け”をしました。 理由は 「橋」 の保護のためだったようです。
 江戸末には1日平均1500人の客と800トンの荷物が運ばれました。 明治7 (1874) 年5月、 大阪〜神戸に鉄道が開通し、 阪神間の海上輸送は衰退しますが、 大阪隆盛のきっかけは西南戦争による物資集積と輸送でした。

4. 日記 等にみる“三十石舟”
*「西遊草・清河八郎・著」 安政2 (1855) 年5月8日 (p.81〜82 平凡社東洋文庫)
 『伏見は太閤秀吉のときの繁華な有様はないが、 西国大名が必ず立ち寄る所だから川端は賑やかである。 今日は雲州侯 (松平出羽守定安、 18万6千石、 居城松江) が通るとのことでとくに賑わっていた。
 八百佐で昼食をとり、 すぐ舟 (三十石船。 毎朝毎夕伏見と大坂から発する) に乗る。 夜舟と違いゆるゆる舟を出した。 私たち三人で六人分の席をしきってゆったりと臥しながら下った。 一里ばかり進み、 八幡山を左に、 山崎山・天王山を右に見る。 秀吉と光秀が戦った跡や、 そのほか寺や塔などはっきり見渡され、 心を慰めた。 淀の城はただちに川に臨んでいた。 世に名高い水車の側をも下った。 (傍線筆者)

 枚方では例のくらわんか舟もやって来なかった。 それから五里ばかり下って守口にいたる頃、 天気が変わって雨となり、 開いておいた苫を覆い、 乗り合いの人たちの話を楽しみながら下った』 (注) 「乗合」 というのはただ坐するだけ。 一人であっても一人半分、 二人分借りるのを<仕切り>といい、 竿を横たえて席を分つ。 下り舟賃100文、 この日は六人分で600文払った。

*「西遊草」 安政2年 (1855) 7月5日 (p.161 平凡社東洋文庫)
 『早朝宿を出立。 八軒から今井船 (京坂の間、 諸物資を積む船) が出ると聞いて、 それに乗ろうとやって来たが、 暑さはいいようもなくきびしい。 川水が干上がって所々に砂地が現われ、 船の往来が大そう回り道になる。 一里余りのぼった所で、 舟が進まないので、 乗合いの者も船頭の指示に従い、 皆川の中に入って舟を押し、 また綱をひいた。 これも旅の一つの面白さだ。 しばらくして西風が激しく吹き出したので、 白帆をあげて飛ぶように進む。 人の力とは違い、 一段と早いので…』

*「ケンプェル江戸参府旅行日記」 1691年2月10日 (p.233 平凡社東洋文庫)
 われわれは伏見で夕食を済ませ、 宿舎のすぐ後ろにつないであった舟に乗り込み、 夜間舟を進めて、 夜中過ぎに大坂の町はずれに着き、 橋の近くの危険な場所を避けるために、 夜の明けるのを待っていた。

*「朝鮮通信使の旅日記」 (辛 基秀・著、 p.120〜121 PHP 新書)
 宝暦14 (1764) 年1月、 厳冬の大坂入りは夜中だったので、 淀川、 町中には挑灯、 蝋燭、 松明、 篝火が各数千ずつ用意された。 江戸へ向かう参勤交代の大名、 琉球使節、 オランダ商館長は、 淀川と並行する街道を利用したのに対して、 信 (よしみ) を通わす朝鮮国の使節には、 最大級のもてなしとして、 二階建の屋形を設けた川御座船が用意され、 左右から綱引人足が引っぱり上げた。 数千名の人足に曳かれる船団はゆっくり川面を滑るようにすすむ。 (傍線筆者)

*「東海道中膝栗毛」 文化6 (1809) 年
 ふし見の昼船に途中より飛乗して、 はやくも大坂の八軒家にいたり…。

*「シーボルト江戸参府紀行」 1826年2月8日 (p.156 平凡社東洋文庫)
 ここ (大坂) では決まった郵送の日があって、 日本の月で、 毎月7、 17、 27は長崎へ、 8、 18、 28は京都や江戸までとなっている。 この定期便は大坂から下関を経て長崎まで7日でゆく。 そのうえ、 下関までは舟足の早いたくさん漕ぎ手をのせた小さい帆舟でゆく。

*「シーボルト江戸参府紀行」 1826年5月2日 (p.236 平凡社東洋文庫)
 夕食をとり、 大坂ゆきの舟に乗り有名な淀川を下る。 西南日本の諸大名がしばしば往来されるので、 舟の設備は大変よい。 これはオランダのトレックスホイテン (馬の引く引船) を思い出させ、 その快適さに関しては甲乙をつけ難い

*日本船路細見記 (船路名所記) より 嘉永4 (1851) 年版

  京より伏見まで三里
   ○たかせふね有
    伏見京橋より大坂京橋へ船路十里
   ○かり切一艘
   ○三十石 上り六十二匁
        下り三メ文位
   ○のりあひ一人前
   ○上り百八十文限
    下り八十四文

* 参 考
【大坂川口出船入船の心得】
 冬は南和泉のかたに笠のことく雲弐つ出て其色白きをおふるは西風ありといへども難なし。 黒き時は出船すべからず。 入船は兵庫にとまるべし。 夏は未申あはぢの方に大雲あるは急はやてあり。 小くもは風おそし。 此山に雲あれば風ふかずといふ事なし。 くも武庫山をおほふ時は必雨ふるとしるべし。

【四代目桂 文我師・「三十石、 夢のかよい路」 より】

 「出そだそだそ、 出ぁ〜しま〜しょ〜〜ッ!」 乗り前が決まりますといぅと船頭さん、 歩み板をば引き揚げます。 三間半赤樫の櫂でもってグ〜ッと突きますといぅと、 舟は岸を離れる。 しばらくは後ずさりのよぉな格好になりまして、 広ぉい所へ出てまいりますといぅと、 いわゆる艫 (とも) 下げにいたしまして大坂向きにするわけでございますなぁ。
 舟が出ますといぅと船頭さん、 舟歌といぅものを唄います。 こらまぁいろいろあるわけでございますが、 ことにはじめの方は 「今、 舟が出たとこやで」 といぅことを知らせる役目でもあったんやそぉでございますねぇ。

♪ やれ〜〜 伏見 中書島なぁ〜 泥島なぁれどよぉ〜 (よ〜〜い)
  なぜに 撞木まちゃな 薮の中よ  (やれさよいよい よ〜〜い)
♪ やれ〜〜 淀の町にもなぁ〜 過ぎたるものはよぉ〜  (よ〜〜い)
  お城櫓にな 水車よ   (やれさよいよい よ〜〜い)
枚方 (ひらかた) の手前あたりで、 まぁ季節にもよるんでしょ〜が、 だいたいは夜が明けたんやそぉでございます。 川の面 (おも) にはもぉ、 ゆわゆる朝もやといぅやつでございますなぁ、 真っ白でございます。

 真っ白の壁のあいだをば、 舟が静かにス〜〜ッと流れているよぉなあんばいでございます。

♪ やれ〜〜 ここはどこじゃとな 船頭衆に問ぉ〜えばよ (よ〜〜い)
  ここは枚方な 鍵屋浦よ (やれさよいよい よ〜〜い) 以下省略

 明治43 (1910) 年4月15日、 京阪電鉄が大阪・天満橋〜京都・五条間の46.57km を開通させることにより、“三十石舟”はその歴史的使命を終えました。