白 い 虹 (最終回)
―蘭領西部ニューギニア・英領ボルネオ方面
       戦没者慰霊遺骨送還航海―
                                                            


                              元航海訓練所練習船船長
                              元東京商船大学教授
                                         
                                 橋 本   進


当時(次席二航士)の筆者


【バリックパパン】
 7月28日早朝、 蘭領ボルネオのバリックパパン港外に着いた。 インドネシア政府の特別入港許可により、 燃料油と飲料水を補給するためである。 午前10時20分、 パイロットの嚮導で1号油桟橋に係留した。 ここには大きな精油所があり、 太平洋戦争勃発後まもなく日本軍が進駐し、 これを接収して給油基地とした港である。
 バリックパパン停泊中に船上慰霊祭を行い、 7月31日午後0時英領ボルネオ・ゼッセルトンに向け出港した。
 当初予定したボルネオ島北東部のセレベス海に面したタラカンでの収骨作業が不許可になったのでマカッサル海峡を北上し、 マンカリハト岬を通過してからスールー諸島の西端タウイタウイ島に針路をとった。 途中、 タラカン沖まで迂回し海上慰霊祭を行った。
 8月3日午後7時、 バラバック海峡中水道を通航して英領ボルネオのゼッセルトンへ向かった。

【ゼッセルトンからミリーへ】
 8月4日午前9時30分ゼッセルトン沖に錨泊した。
ゼッセルトン地区での3日間にわたる収骨作業は、 2人の日本人老婆の案内でゴム林や椰子林の中の埋葬地で行われた。 特に、 椰子林の中の旧日本軍第一二野戦病院跡で行われた収骨作業は印象深かった。
 当初の打ち合わせでは、 イギリス官憲はそこに遺骨はないと明言していたが、 老婆の1人はわれわれ作業員を墓標のある小高い丘に案内してくれたのである。 その丘の周囲には有刺鉄線が張り巡らされ、 その錆びた鉄線は直径30センチもあろうかと思われる太い立木の真ん中を貫通しており、 過ぎた年月の長さを感じさせた。 作業員はその鉄線に沿って1列に並び、 持参の殺虫剤を燃やして煙を追い上げ、 害虫を駆除してから2人1組となって土葬の墓を掘り返した。 私も実習生と組んで2体を収容した。

 8月6日午後6時、 ゼッセルトンを抜錨してラブアンに向かい翌7日午前7時、 ラブアン島ビクトリア港沖に錨泊した。 ビクトリア市には1人の日本人老爺が住んでおり、 停泊中休まず収骨作業に協力してくれた。

 8日朝、 飲料水補給のため岸壁に係留替えし、 同時にこの地に建碑して慰霊祭を行った。 乗組員、 実習生および同乗者に自由上陸が許可され、 市内見学や買い物を楽しんだ。
 同日午後3時、 ビクトリア港をあとにしてブルネイ湾を南下した。
 8月8日午後3時30分ブルネイ河口のムアラ島沖に錨泊し、 ムアラ島、 ムアラ部落およびブルネイの収骨作業を実施し37体を収容した。 9日の午前から激しい雷雨になったため、 船上で慰霊祭を行った。 午後6時、 抜錨して最後の収骨地ミリーに向かった。
      

【ミリー】
 8月10日午前7時40分、 ミリー沖合2海里 (約3.7キロメートル) に錨泊した。 ミリーは直接南シナ海に面しているため波浪の影響を受けやすく、 停泊中は常に南西寄りのうねりと風浪に悩まされた。 そのため、 本船の内火艇・救命ボートを使用した収骨作業員の上陸は極めて危険と判断、 当地の大型ランチで上陸し四体の遺骨を収容した。
 ミリーは戦時中、 旧日本海軍の根拠地であったせいか対日感情はまずまずであった。 街はよく整備されているが、 ミリー河は原油でドス黒く汚れていた。
 翌11日はうねりがさらに激しくなったので作業上陸は取り止め、 慰霊祭は船上で行うことを余儀なくされた。 それでも食料積込みはかろうじて成功した。
 8月12日正午、 英領ボルネオ地区の収骨作業、 慰霊碑建設および慰霊祭はすべて終了しミリーを抜錨した。 帰路はフィリピン・ルソン島西方へ向かう推薦航路をとった。
                   

【セントエルモの火】
 8月12日の夜は稲妻と雷鳴が激しく、 レーダー画像にも無数のスコール雲が出没する険悪な天候であった。 午後11時過ぎ当直中の私は、 船橋左舷ウィングの露天甲板に出て何気なくレピーター・コンパスを見たとき、 漆黒の闇の中でシャドーピン (方位測定ピン) の先端から微かに燃える炎のような光を見たのである。
 途端に、 『白鯨 (モビー・ディック)』 のエイハブ船長が頭に浮かんだ。
 「セントエルモの火だ!」
と思った瞬間、 炎は消え2度と現れなかった。
 当直が終わったとき、 私はこの経験を実習生に話した。
 「おれもセントエルモの火を見たのは初めてだ。 君達も将来、 今夜のような自然条件さえ整えば、 電気的に絶縁された物体の先端にセントエルモの火を見ることを経験することもあるだろう。 昔から、 セントエルモの火は航海の安全を告げる吉兆といわれている。 故国日本へのコースをとった大成丸の無事の帰国を、 全戦没者の魂が炎となって祈ってくれているのであろう」
 最後にエイハブ船長の物語も紹介した。

【東京帰航】
 8月13日午後、 今航海最後の海上慰霊祭を行った。 大成丸はキラキラ輝く海面を大きく旋回しながら汽笛を3回長く吹鳴し、 未だに南の島や海に眠る戦没者の冥福を祈った。
 蘭領西部ニューギニヤと英領ボルネオ方面で収容した599体の遺骨は、 13の白木の箱に分納して船尾、 下甲板 (げかんぱん) の第二教室に用意した遺骨安置所に、 また、 各地で収集した遺品は52個の段ボールに収納して同じ安置所に保管し、 朝と夕に慰霊が行われた。
 航海中、 4時間の当直を終えた航海士・機関士は実習生を連れて安全確認のため船内を巡視する。 巡視経路にある第二教室は普段は櫓を漕ぐような船体のきしむ音が聞こえ、 スクリューの振動が心地よく伝わるのどかな場所であった。 ところが、 そこに遺骨安置所を設置してから雰囲気はがらりと変わった。 そこを巡視する私の耳には、 南方で散った全戦没者の啜(すす)り泣きが聞こえ、 ときに激しく慟哭する声が聞こえたのである。 実習生は、 第二教室の巡視は怖くて嫌だと言った。 収骨作業を思い出すのであろう。
8月22日午後1時20分、 無事東京検疫錨地に帰着した。 翌23日午前8時、 国旗を半旗とし、 パイロットの嚮導で午前9時20分、 数千人の出迎えを受けて芝浦・竹芝桟橋に係留した。
 舷門配備の私は、 ただちにタラップを下ろし、 待ちわびる遺族たちをまっすぐ船尾第二教室の遺骨安置所へ案内した。 霊前にぬかずいた遺族たちはいつまでも顔を上げようとしなかった。
 午前10時、 第二教室の遺骨安置所において厚生大臣、 遺骨収集派遣団員、 遺族らが参列して簡素なうちにも厳粛に遺骨奉迎式が行われた。
 午前10時50分、 椎名船長に先導された599柱の遺骨は16人の政府派遣団員の胸に抱かれ、 船内から流れるベートーヴェンの英雄交響曲第二楽章 『葬送行進曲』 に送られて静かにタラップを降り、 10数年ぶりに声なき帰国を果たした。 遺骨は厚生省差回しの霊柩車3台に分乗し竹芝桟橋をあとにした。
それを機に、 出迎えの人々は三々五々桟橋を去っていった。

 その時、 1人の黒いスーツ姿の婦人が、 舷門に立つ私に向かって深々と頭を下げた。 東京出航のときのあの婦人であった。 私は、 「しっかり慰霊してまいりました」 と万感を込めて挙手の礼を返した。 婦人は軽く会釈し足早に人込みに消えていった。
                  

【遺骨収集航海を終えて】
大成丸帰国後、 ジャーナリズムがはじめて練習船の戦没者慰霊遺骨収集航海と実習生の献身振りを取り上げたのは8月27日付朝日新聞の 『天声人語』 であった。
 『“どくろみな虚空にらんで樹下闇”楽しい遠洋航海も犠牲にして大成丸で南方へお骨拾いのお手伝いに行った商船大学、 高校の1学生が作った句である。 17、 8から22、 3歳の若い学生たち約80名だが、 実によくやったそうだ。 普通の遠洋航海ならハワイ辺りで花のレイをかけられたりして“海の子”として華やかな国際交歓もできたろうに、 早くいえば墓堀り人足のようなみじめな仕事に甘んじて奉仕した。 これも戦争の後始末とはいえ、 戦争中はまだ幼少年だったかれらが、 敗残兵のような作業服をきて、 行く先々で肩身の狭い思いをしながら、 不平も言わず黙々としてシャベルをふるったそうだ。 今の世にもこうゆう若者たちがいることも忘れてなるまい。 お骨拾いの“経費節減”に商船学徒をただで動員するのはこんどきりにしたい。 将来の幹部船員に遠洋航海による国際交歓の機会も与えないのは考えものである。』

 昭和32年4月1日、 私は北斗丸二等航海士の辞令を受けて転船した。
 昭和34年3月28日、 政府によって 「千鳥ケ淵戦没者墓苑」 が完成した。 練習船大成丸で送還した無名戦士の遺骨も納骨されたことを知った。
昭和46年3月、 横須賀市の観音崎公園の丘に 「戦没船員の碑」 が建設された。 この碑は、 海運・水産関係をはじめ、 広く一般国民に募金した浄財によって建立されたものであった。

 蘭領西部ニューギニア・英領ボルネオ方面の戦没者慰霊遺骨収集航海を経験した私は、 「千鳥ケ淵戦没者墓苑」 の遺骨は、 全戦域に眠る戦没者の象徴的遺骨であり、 「戦没船員の碑」 は、 何一つ残さず暗い海に沈んだ戦没船員の象徴であることを知っている。
 私は、 千鳥ケ淵も観音崎も共に全戦没者を悼(いた)み平和を祈る場所であると信じている。  (完)

 本稿は 「旅客船」 NO.231に掲載されたものを、 旅客船協会のご好意により、 加筆訂正の上掲載させていただきました。

【参考資料】
 船舶運営会史:船舶運営会、昭和22年
 白鯨:阿部知二、 筑摩書房、昭和24年
 日本商船隊戦時遭難史:(財) 海上労働協会、昭和37年
 私の戦後海運史:米田博、(株)船舶技術協会、昭和58年
 水爆実験と日本漁業:近藤康男,東京大学出版会、昭和33年
 蘭領西部ニューギニア英領ボルネオ方面遺骨収集航海報告:大成丸、昭和31年9月  
 航海訓練所二十年史:航海訓練所、昭和38年
 戦史叢書・中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和17年6月以降:防衛庁防衛研修所 戦史室、
  朝雲新聞社昭和48年
 慟哭の海:浅井栄資、 日本海事広報協会、昭和60年