白 い 虹 (U)
―蘭領西部ニューギニア・英領ボルネオ方面戦没者慰霊遺骨送還航海―





                                                            

                  元航海訓練所練習船船長    
                  元東京商船大学教授 橋 本 進




当時の筆者
 (次席二航士)



【ヌンホル島】
 7月13日午前8時ビアク島モクメルを出港し、 翌13日午後4時ヌンホル島カミリー沖に投錨した。
 カミリー錨地進入に際し、 椎名船長は極めて慎重であった。 先ず、 橋本航海士をレーダーマストの見張台に配置した。 高い所から海面の色の変化を見て水深を判断し、 船橋に報告させるためである。 次に、 船首配置の山本一等航海士には深海投錨を令し、 錨鎖を約25メートル繰り出し、 船橋からの指令によって投錨・錨泊の処置をとるよう指示した。
 停泊当直者にはこの辺りは常に約0.5ノットの西流が観測されているので、 特に守錨に注意せよとのキャプテン・オーダーが出た。
 ヌンホル島上陸に先立ち、 派遣団から 「ヌンホル島では飛行場守備兵約2,000名が玉砕した。 島には毒蛇が生息し、 マラリアは悪性、 海岸には海蛇・毒クラゲがいるので服装は厳重に」 という情報が寄せられた。 猛暑の中での重装備は苦痛であったがやむを得ない。
 この日、 私は実習生を引率して上陸した。 カミリーの上陸予定地はサンゴ礁が散在し、 浅所が多く、 内火艇・救命ボートの運航も容易でなかった。 やっと上陸すると旧日本陸軍の緑色の半袖上着を着込んだ現地人が現れ、 「トアン、 ジャランジャラン」 と我々の先に立って歩き出した。 あとにつづいて歩くこと約30分、 現地人が道路をそれてジャングルに入り、 奥のくぼ地を指差した。
そのくぼ地には、 多数の骨とおびただしい薬莢が散らばっていた。 現地人も怖がって近づかない場所だという。 木陰の、 名も知れぬシャレコウベは30センチほどの落ち葉の下に埋もれていた。 掘り起こすと雑草の根が眼窩が ん かやあごの中に入り込んでいた。 それをむしり取って並べると、 シャレコウベはみな天を仰ぎ、 激しく慟哭しているかのようであった。
収骨作業に従事したある実習生は、
  「どくろみな 虚空こくうにらんで 木下こした闇やみ」
と、 その悲惨さを詠んだ。
 翌日、 私は停泊当直で船内に留まった。 昨日の当直者に聞いてはいたが何とも楽しい停泊であった。
 カヌーを操って本船の周りに集まった現地人が 「トアン、 ピサン、 バグース、 トッカールカー」 と盛んに叫んでいる。 その意味はすぐに分かった。 カヌーにはうまそうなバナナがいっぱい積み込まれていたからである。 「トッカール」 は旧日本兵の使っていた 「とりかえる」 の名残りであろうということになり、 カヌーと船上をロープでぶら下げたバケツによるミニ交易が始まった。 交易対象はバナナから鼈甲べっこう (鼈甲亀の背甲13枚を乾燥して針金を通し1吊りにしたもの)、 生きた鼈甲亀 (たいまい)、 オウムと多様で、 こちらの交換品も最初は石鹸、 次いで肌着、 シャツ・ズボンとはね上がり、 最後は腕時計にまで高騰した。 ともあれ、 同乗のオランダ官憲が鷹揚おうようであったことも幸いした。
東西20キロ、 南北25キロのヌンホル島で収容した遺骨は152体であった。
 7月16日午前8時、 4日間の停泊を終えマノクワリに向かった。

【マノクワリ】
 同日午後1時、 パイロットの嚮導でマノクワリ港の係船ブイ (浮標) に係留した。 政府派遣団員によれば、 この地区は宇品編成の船舶部隊が戦ったところだという。
 マノクワリには戦前オランダ政庁があったためか、 山の中腹から海岸にかけてのなだらかな傾斜地には瀟洒しょうしゃな住宅が建ち並び、 その夜景は日本の港町を思わせる風情があった。
 ところが、 この町は対日感情が悪く自由行動は全く許されなかったので収骨作業にも大きな支障を来した。 それでも収骨作業は三日間にわたって精力的につづけられ、 この間に慰霊碑を建て慰霊祭を行った。  
 マノクワリは近代的な町であったが、 一歩、 町を離れるとニューギニヤが顔をのぞかせていた。 原住民の子供は裸足はだしで素っ裸すっぱだか、 しかも腹が出っ張っている。 慢性のマラリアを患い脾臓ひぞうが肥大しているためという。 彼らの“けんか”は互いにこの急所の腹を突きあうのだそうだ。 大人は裸足でフンドシ1つ、 シャツを着ている者もあるが、 手には魚取り用の木製弓矢や手槍を持っていた。
 7月20日午後5時50分マノクワリをあとにしてメガに向かった。 本日は 「海の記念日」 につき、 夜食に牡丹餅ぼたもちが出た。


【メガ】
 7月21日早朝、 メガ沖に着いた。 予定錨地の両側には広範囲にわたってサンゴ礁があり、 その間の水路は狭いうえに川が流れ込んでいる。 椎名船長はいつものように橋本航海士をレーダーマストの見張台に配置し、 フォクスル (船首楼) の山本一等航海士にはハンド・レッド (手用測鉛) による測深をつづけるよう指示して慎重に錨地へ進入、 午前9時30分投錨した。
 今回のニューギニヤ沿岸僻地へきちの収骨作業地には川が多く、 川はジャングルを二分しているので、 上陸地の片岸から川を横切っての収骨作業は不可能にちかかった。 したがって、 錨泊地は川口に近く、 川をはさんでどちら側の海岸へも上陸できるところが選ばれた。 そのため、 作業隊は上陸地点の選択に制約を受け、 ボートから降りて下半身ずぶぬれになって上陸しなければならぬこともあった。
 メガの収骨作業は私たち左舷班の出番であった。
 私はボート2隻を指揮して川口の右岸を目指したところ、 幸いにも海沿いにココ椰子の生えた格好の砂浜を発見した。 しかし、 ここでも海岸近くでボートを降り、 下半身ずぶぬれになって上陸しなければならなかった。
 上陸すると、 その椰子の木陰から原住民とおぼしき男たちがもの珍しそうに近寄ってきた。 男たちはこれまで見たパプア人と違い恐ろしげな顔つきで、 そのうえ、 鼻には牛の鼻輪のように、 動物の骨らしきもので作った白い棒を横刺ししているので、 いっそう獰猛どうもうに見えた。 戦時中、 上陸してきた連合軍の日本兵狩りに、 蛮刀と弓矢を持って荷担かたんしたという話を聞くと、 なおさら憎らしい顔付きに見えてきた。 ところが、 収骨作業を終え海岸に戻って一服していたところ、 彼らは椰子の木にスルスルと登って実を落し、 蛮刀で飲み口を作ってそれをわれわれにプレゼントしてくれたのだ。 水筒の水も飲み干し喉もカラカラの時だったので、 その椰子の果汁のうまかったこと…、 上陸したとき獰猛に見えた顔は愛嬌のある親切そうな顔に見えだした。 もともと原住民は純朴で親切な人たちだったのだ。

 ふたたび海に浸つかりながらボートに戻り、 本船に帰着した。 その夜、 持ち帰った椰子の実の“コプラのスライス”は、 酒のつまみに絶品であることを一等航海士から教わった。  錨泊は1日で、 翌22日午前8時抜錨、 ニューギニヤ地区最後の寄港地ソロンに向かった。 途中、 ワイゲオ島南東岸で漂泊し救助艇操練を兼ねて上陸、 同島戦没者の遺族のために海 岸の砂を採取して持ち帰った。

【ソロン】
 7月22日午後4時30分、 パイロットの嚮導でソロンの採油桟橋に係留した。
ソロンはニューギニヤ島西端にあり、 オランダ領西ニューギニア政庁があった。 現地パプア人の対日感情は非常に良く、 上陸すると 「ニッポン・バグース」 と親指を立てて人なつこく笑いかけてきた。 この地区は北海道旭川編成の第三五師団が駐留していたという。
 ソロンでの収骨作業は許可されなかったが、 石油会社の好意により24日午前、 港を見下ろす景色のよい丘の上で慰霊祭を行った。
 これでニューギニヤ地区の遺骨収集作業は順調に終了した。 24日間にわたる西部ニューギニア収骨作業の成果は、 収骨総数402体、 うち氏名の判明したもの13体、 おおむね判明したもの38体であった。
当地で燃料油を補給し、 同日午後4時20分ソロンを発ってボルネオ南東岸のバリックパパンに向かった。 同乗のオランダ官憲2名はここで下船した。


【白い虹】
 7月24日ソロンを出港、 瀬戸内海を思わせるサギン海峡を通過し、 翌25日午前5時30分、 東経129度31分の地点で赤道を南から北へ通過し、 ハルマヘラ島の東沖を北上した。 夕刻、 ハルマヘラ島とその北のモロタイ島に挟まれたモロタイ海峡を通航中に船上慰霊祭を行った。 当初予定のモロタイ島収骨作業が不可能になったからである。
 この日は朝から雲が低くたれ込めていたが、 モロタイ島を過ぎたころから雲が切れはじめ空は明るくなってきた。 午後8時過ぎ、 当直中の私は予定航路にしたがって船首をセレベス島北東端のメナド沖に向けた。 船尾を見ると十六夜いざよいの月が輝いていた。
 その時である。 針路前面の空高く架かる淡く白い虹を見たのだ。
「ビー・セカンドオフィサー、 あれ何ですか」
と実習生が問うてきた。 船内では次席二等航海士をこう呼び、 (主席) 二等航海士を 「エー・セカンドオッフィサー」 と呼ぶ。
 「おれも初めてだ。 おそらく“月の虹”だろう」
と私は答えた。
 当直を終えた私は自室に戻るなり、 あらためて“月の虹”について調べた。 事典には、 『月虹げっこう。 月の光で見える虹。 光が弱いために色彩が弱く、 白く見える。 白虹。』 とあり、 さらに、 虹の伝説について、 『虹を天地の通路、 神霊や霊魂の通路とする伝承は古代インドネシアやメラネシア地方に分布する。』 とあった。 ここまで読んだとき、 私の顔はこわばった。 これまで何となく見ていた虹にも、 南の島々では深い意味があったことを初めて知ったからである。
 大東亜戦争のさなか、 南海に沈み、 ニューギニアのジャングルに埋もれていった幾万の戦没者の鎮魂をいま終えたとはいえ、 収集された遺骨はほんの一握りである。 ほとんどの遺骨は引き揚げられぬままの船底に、 あるいは、 人跡未踏の大ジャングルに野ざらしのまま放置されている。 大成丸はその無念さを母国に伝えようと、 いまニューギニアの地を去る日に、 現地では霊魂の通路と伝承される虹、 それも白い虹をくぐることになった巡り合わせに、 私は背中に冷たいものが流れるのを覚えた。

【メナド沖】
 7月26日夕刻、 セレベス島 (現スラウェシ島) ミナハサ半島北東端の港湾都市メナド沖を通過した。 メナド富士もメナドの夜景もすばらしく、 我々の目を十分に楽しませてくれた。
 大東亜戦争初期の昭和17年1月11日、 日本軍初の空挺作戦が実施され横須賀鎮守府第一特別陸戦隊の落下傘部隊がここメナドに降下した。 この地には昔から、 「救世主は白い天馬にまたがって舞い降りてくる」 という伝承があり、 日本軍はこれを利用したのだ。 白い落下傘で舞い降りた日本兵に原地人は快哉を叫んだという。
 この地も収骨が許されなかったので船上で慰霊祭を行い西航をつづけた。
 7月28日早朝、 スラウェシ島とボルネオ島 (現カリマンタン島) 間のマカッサル海峡に入り、 バリックパパンに向け南下をつづけた。 同日午前9時10分、 東経119度29分で再び赤道を南へ通過した。
(次号に続く)

 本稿は 「旅客船」 No.231に掲載されたものを、 旅客船協会のご好意により、 加筆訂正の上掲載させていただきました。