
【戦後の日本海運と海外引揚輸送】
大戦中の日本商船隊の船舶損失量は、 戦時中に急造された船舶を含めて100総トン以上の鋼鉄船は2,568隻、
843万3,389総トンに達した。 残存船腹量は849隻、
1,404,878総トンとなり、 日本海運が保持していた船舶のほとんどが多数の人命とともに海に沈んだ。
船員については、 公表された数字のみで30,592名が戦死した。
この数字は戦時海上輸送に従事した汽船船員の43%にあたり、
陸海軍軍人の損耗率 (陸軍20%、 海軍16%)
の2倍以上に及んでいる。 生き残った船員は15,832
名であった。 この戦没船員数は戦後の再調査で漁船・機帆船船員を含めると60,331名となった。
戦後、 連合国軍総司令部は、 この生き残った日本人船員を日本残存船舶とアメリカ軍貸与船艇の戦時標準型船リバティー、
戦車上陸用舟艇LSTなど200隻あまりに乗船させ、
各戦域に散在する旧軍人の復員輸送、 外地邦人の引揚輸送にあたらせた。
【練習船による海外引揚輸送・戦没者慰霊遺骨送還航海】
昭和24年4月、 私は卒業と同時に運輸省航海訓練所練習船教官の道を選んだ。
当時の練習船は航海実習のかたわら国内の物資輸送にも携わり、
時には、 政府の要請によって旧軍人の復員輸送、
在外邦人の引揚輸送航海、 戦没者慰霊遺骨送還航海にも従事した。
そのいずれの航海にもドラマはあったが、 なかでも、
昭和31年の練習汽船大成丸による蘭領西部ニューギニア、
英領ボルネオ方面への戦没者慰霊遺骨送還航海は、
私にとって生涯忘れることのできない哀しい悲惨な“鎮魂の船路た び”のドラマであった。
昭和26年 (1951) 9月8日、 日本国の平和条約
(通称サンフランシスコ講和条約) が調印された。
その直後から、 これまで手を付けられないままに過ぎていた戦没者の慰霊と遺骨送還実現への世論が急速に高まってきた。
日本政府は昭和27年10月23日、 『米国管理地域における戦没者の遺骨の送還慰霊等に関する件』
を閣議了解事項として定め、 まず南方八島 (マーカス島、
ウエーク島、 サイパン島、 テニアン島、 グアム島、
アンガウル島、 ペリリュー島および硫黄島)
へ戦没者遺骨送還および慰霊のための政府派遣団を送ることになった。
政府の要請を受けた運輸省は、 所属の航海訓練所・練習帆船日本丸をこれに充当し、
昭和28年 (1953) 1月31日から同年3月19日まで48日、
6,023海里 (約11,155キロメートル) におよぶ戦没者慰霊遺骨収集航海を実施した。
【アメリカの水爆実験】
翌昭和29年 (1954) 3月から5月にかけて、
アメリカはマーシャル諸島北西端のビキニ環礁でコードネーム
「ブラボーショット」 と呼ばれる水爆実験を行った。
この水爆は18メガトン、 広島に投下された原爆の1千倍もの破壊力を持つていた。
3月1日、 マーシャル諸島北西端ビキニ環礁の東北東約92海里
(約170キロメートル) の洋上でマグロ漁業に従事していた第五福竜丸
(総トン数140.86トン) と乗組員23名は、 水爆実験の“死の灰”を浴び大きな国際問題となった。
さらに、 この年の12月末までに856隻の漁船が被害を受け、
水揚げされたマグロは“原爆マグロ”と呼ばれ486トンが廃棄された。
水爆実験による海洋汚染は予想以上に拡大していたのだ。
その翌年の昭和30年 (1955年) 1月4日、
当時の鳩山内閣は初閣議で、 『ビキニ被災事件の補償問題の解決に関する件』
を決定した。 内容を要約すると、
「アメリカ政府は日本政府に慰謝料として200万ドル
(当時の7億2千万円) を支払い、 引き換えにブラボーショットによる被害の実相などの追求はしない」
というものであった。 その結果、 アメリカの核実験に関するあらゆる情報は軍事機密とし
て取り扱われることになった。
日本政府はビキニ補償問題の解決を受けて一時中断していた南方方面の戦没者慰霊遺骨
収集航海を再開することを決め、 ソロモン群島東部ニューギニア方面を計画した。
要請を受けた航海訓練所は当初、 実習生を乗船させたまま、
水爆実験で汚染された北赤
道海流を横切り、 正確な水路の資料もない南太平洋への航海に大きな懸念を抱いていた。
しかし、 この航海は国民が熱望する国家的プロジェクトであることから実施に踏み切り
練習汽船大成丸の派遣を決めた。
【練習汽船大成丸】
大成丸は、 日本郵船(株)から購入した貨客船小樽丸を船体中央部で10メートル延伸する改修工事を行い、
昭和29年2月25日に就航した汽船練習船である。“大成丸”の船名は、
終戦直後の昭和20年10月9日、 神戸港内で触雷沈没した旧東京高等商船学校練習帆船大成丸の栄光を引き継いだものである。
練習汽船大成丸の主要目は、 総トン数2,430.21トン、
長さ95.19メートル、 幅12.20メートル、 機関:蒸気タービン
(軸馬力1,700馬力) 1基、 航海速力10.5ノット、
航続距離8,000海里である。 大成丸はボイラーを持つタービン船でありながら冷房設備はなく、
季節と地域によって船内は灼熱地獄になった。
【戦没者遺骨送還・慰霊航海】
大成丸による最初の戦没者遺骨送還および慰霊航海は、
昭和30年1月12日東京出航、 ガダルカナル島ホニアラ、
ブーゲンビル島ブイン、 ニューブリテン島ラバウルおよび東部ニ
ューギニア・ウエワクなどの激戦地跡を巡航し、
同年3月19日東京帰航というもので、 総航程8,340海里
(約15,446キロメートル)、 航海日数67日の航海であった。
この年、 昭和30年9月1日、 私は大成丸次席二等航海士を命じられた。
昭和31年 (1956) はじめ、 政府は第2回目の戦没者遺骨送還および慰霊航海として蘭領西部ニューギニア、
インドネシアおよび英領ボルネオ方面への練習船派遣を運輸省に要請してきた。
航海訓練所は実習訓練上の問題点を抱えながらも前回同様大成丸を派遣することとし、
6月20日東京発、 8月23日東京帰着という計画をたてた。
乗船者は次のとおりである。
乗組員 |
職員 |
船 長 |
椎名薫 |
|
|
機関長 |
和田友夫 |
|
|
他 |
20名 |
|
部員 |
|
45名 |
|
|
計 |
67名 |
実習生 |
航海科 |
商船高等学校 |
27名 |
|
機関科 |
東京商船大学 |
27名 |
|
神戸商船大学 |
17名 |
|
|
計 |
71名 |
遺骨収集政府派遣団 |
団長・鹿江隆他政府職員 |
8名 |
|
|
石工 |
1名 |
|
|
宗教代表(神道・仏教・キリスト教) |
3名 |
|
|
遺族代表 |
4名 |
|
|
計 |
16名 |
乗船記者団 |
代表・入江徳郎他 |
8名 |
|
|
計 |
162名 |
【水爆実験に対する災害予防対策】
この航海の最大の懸案は、 2年前の昭和29年
(1954) 3月1日アメリカがビキニ環礁で実施した水爆実験による放射能災害の予防対策であった。
ところが、 原水爆実験にともなう災害状況や予防対策等に関する情報はアメリカの軍事機密として扱われたため、
災害予防に関する情報は極めて少なかった。
担当の徳田二等航海士が嘆いていたように、
例えば、 放射能許容量についての情報は、
「大気1立方メートルあたり毎分300カウント、
毎時0.168ミリレントゲン、 毎週30ミリレントゲン。
上記許容量はいずれも持続するものでなければ大して恐れることはない。
(厚生省資料)」
という簡単な、 というよりも大ざっぱな、 お粗末なものであった。
一方、 出航に際し予防対策として準備したものは、
携帯用サーベイメータ (ガイガー計数管)、
防塵マスク、 ビニール合羽 (全身を被覆できる頭巾・上衣・ズボン・手袋)
程度で、 極めて消極的な災害予防対策であった。
【東京出航】
昭和31年6月20日、 出航の日となった。
晴海桟橋に続く広場では 「豪北方面引揚促進会」、
「ニューギニア航空部隊生存者」、 「旧二九一連隊生存者」
などの幟のぼりを立てた一団や乗組員・実習生の家族・友人など千名を超す人々が盛んに手を振って大成丸を見送っていた。
桟橋上では小さな花輪や造花の花束を政府派遣団員に託している家族たちの姿があった。
舷門付近の警備に当たっていた私は、 その見送りの一団の中から1人の婦人がツーと抜け出て、
急いだ足取りでタラップ (舷梯) を登ってくるのが目に入った。
私は婦人の用向きを聞こうと舷門へ急いだ。
舷門に立った婦人は戸惑いを見せながら、 ささやくような小さな声で、
「船員だった夫の好物のビールと“おつまみ”が入っています。
この手紙と一緒に南の海に供えていただけないでしょうか。
お願いします」
と小さな包みに、 表書きも裏書きもない白い封筒を添えて私に手渡した。
「お名前は…」
と尋ねたが、 婦人は一礼し、 黙ってタラップを降りていった。
そのうしろ姿に、 私は亡き母を思い出し胸が詰まった。
兄の戦死公報を受けとってからの母の姿がダブったのである。
午前11時、 大成丸は全航程8,000海里 (約14,816キロメートル)、
航海日数60日にわたる慰霊・遺骨収集航海の途についた。
浦賀水道、 伊豆大島、 八丈島、 青ケ島を航過してからは、
ニューギニア・ホーランディア港への直航針路はとらず、
大東亜戦争に関与した海域・島嶼沖を経由して慰霊を行いつつ南下することになった。
通過点は硫黄島東沖、 マリアナ諸島ウラカス・テニヤン・サイパン・グアム各島の西沖、
カロリン諸島ウルシー環礁北沖、 ヤップ島東沖である。
【ビキニ水爆実験による空気汚染】
6月23日の朝早く、 南硫黄島東南東の北緯24度、
東経142度付近を航行中、 昨年5月からビキニ水爆実験による放射能測定調査のため、
マリアナ諸島東方に配備されている水産庁海洋調査船俊鶻しゅんこつ丸から、
「テニアン島南東方160海里 (約296キロメートル)
およびポナペ北方約180海里 (約333キロメートル)
の海域に空気汚染あり、 警戒を要す」
の航行警報を受信した。 椎名船長は直ちに航海当直中の山本一等航海士へ、
「見張りを厳重にし、 海水の使用は極力抑え、
スコールは避けること」 を指令する一方、 放射能災害予防担当の徳田航海士へは放射能測定を命じた。
午前0時から4時間の当直を終えて就寝中の徳田航海士は、
直ちに起床して放射能測定にかかった。 作業は翌24日朝の午前5時まで、
まるまる24時間つづいたが心配された放射能異常は認められなかった。
この日の朝食時、 徳田航海士の部屋の前を通ると、
扉に、
「アサメシハイラヌ、 ソンシテモトクダ」
とユーモアたっぷりの張り紙がしてあった。
よほど疲れていたのであろう。

【海上慰霊祭】
午前8時、 私が当直を引き継いでまもなく、
右舷側少し離れたところを軽いスコールが通過し、
そのあとに大きくきれいな虹がかかった。 午後は慰霊および遺骨収集作業についての幹部会議があり、
乗組員・実習生は右舷班と左舷班に分かれ、
交代で (これを半舷交代という) 収骨作業に協力することが決まった。
右舷班は徳田二等航海士、 左舷班は橋本次席二等航海士が指揮を執ることになった。
6月30日午前9時、 ホーランディア北方190海里
(約352キロメートル) の洋上で初の海上慰霊祭を行った。
後部上甲板上には政府派遣遺骨収集団、 記者団および乗組員・実習生が参集し、
神道しんとう・キリスト教・仏教の順で慰霊が行われた。
私も婦人から託されていた小さな包みと白い封筒を祭壇に供え手を合わせた。
大成丸は大きく左に旋回しヴォー・ヴォー・ヴォーと汽笛を3回、
長く長く鳴らしながら、 祭壇の供物や出航のときに託されていた品々を次々に海へ流して霊を慰めた。
同日午後1時32分、 東経141度の地点で赤道を通過し北太平洋から南太平洋に入った。
午後は古いしきたりに従った赤道祭、 つづいて船内大運動会が開催され、
初参加の実習生や同乗の人たちは海のレクリエーションを満喫した。
そのさなかに厚生省より、
「インドネシア地区の収骨作業は、 同国が拒否を通告してきたので実施不可能」
という公電が入った。 予定していたインドネシア地区はモロタイ島、
セレベス島 (現スラウェシ島) 北端のメナドおよびボルネオ東部のタラカンであった。
午後8時、 当直に入った私は海上慰霊祭の意義と、
婦人から託された小さな包みと白い封筒にまつわる悲しい現実を、
当直中の実習生に語り聞かせた。 この夜は波ひとつない穏やかな航海で、
時折、 遠くの雲に稲妻が映えていた。
【ホーランディア】
7月1日午前8時、 パイロット (水先人みずさきにん)
の嚮導きょうどうでホーランディア港の税関桟橋に係留した。
政府派遣団の鹿江団長は厚生省からの指示に従い、
今後の予定について現地官憲と交渉のため上陸した。
その結果、 ニューギニア地区の作業日数を予定より5日間延長し寄港地もマッフィン、
ワクデ島、 メガの3地点を追加することになった。
ホーランディア停泊中、 現地官憲の監視は厳しく自由行動は許されなかった。
それでも現地のパプア人たちの対日感情は良く、
官憲の目をぬすんでは本船の舷側に集まり、
われわれの前で知っている限りの漢字を書き、
「見よ東海の空明けて、 旭日高く輝けば…」
と戦争中の日本の“愛国行進曲”を歌ってみせた。
この日は午後1時からコタバル日本人墓地の発掘を予定していたが、
現地オランダ官憲の 「日本人戦犯墓地の発掘は一般墓地の平安を乱す」
との理由で許可されなかった。 その墓地に赴いた政府派遣団員は、
「埋葬地は一般墓地の傍らの陽の当たらぬ荒れ地にあり、
1本の墓標さえ見当たらず思わず涙が出た」
とわれわれに語った。
翌2日はコタバル共同墓地の日本人戦犯処刑地跡で追悼式を行った。
私は左舷班を率いて追悼式に参列し、 遺族のために同墓地の少量の土を持ち帰った。
その帰路、 連合軍上陸地のハマディ海岸に立ち寄った。
海辺には当時の残骸が今なお激戦の跡を留めており、
海岸後方の高地には現地住民が 「お化け砲台」
と恐れている旧日本軍の砲台跡があった。 その砲座は半ば崩れ、
海に向いた砲身には無数の鋭く深くえぐられた弾痕があった。
住民の話では、 この砲台には夜な夜な日本兵の亡霊が集まり、
号令一下い っ か、 その大砲を操作するという。
それを聞いた同行の総持寺そ う じ
じ・松田導師は、
その霊のために読経し 「喝かつ!」 と引導を渡した。
参列者一同、 合掌して冥福を祈った。
7月3日、 徳田航海士に引率された右舷班が上陸しコタバル海岸で9個の遺骨、
ほかに火葬した遺骨約40体を掘り起こし収容した。
7月4日午前ハマディの丘で慰霊祭を行い、
午後5時50分税関桟橋を解纜かいらんしてサルミに向かった。
出港に先立ちオランダ政府の現地連絡調整官2名およびニューギニヤ地区警察官4名が乗船した。
調整官の1人、 スネルレン海軍大尉は父が在日公使館勤務のとき東京で生まれたという。
【サルミ、 マフィンとワクデ島】
7月5日午前4時50分過ぎワクデ島北方沖を航行中、
暗闇の海上で“SOS”の発光信号を発見した。
福井次席一等航海士指揮のもと、 ただちに救命ボートを降下して遭難船の救助に向かい、
乗組員5名を救助・収容した。 この船はオランダ船籍のアパワ号
(6トン、 シュライネル船長) といい、 去る7月2日パン輸送のためホーランディアを出港してヤスミへ向かったが途中エンジンが故障し、
3日間も漂流していたという。
大成丸は同船を曳航して5日午前9時10分サルミ沖に到着した。
政府派遣団員によれば、 この地区は弘前ひろさき編成の第36師団が防衛にあたり、
昭和19年5月以来連合軍を迎え撃って終戦まで壮烈な戦いを繰り広げた戦場であったという。
鹿江団長は現地官憲とサルミ、 マッフィン、
ワクデ島の収骨作業について協議を行った。
協議終了後マッフィンに向かい、 午後1時20分マッフィン沖に投錨した。
ところが、 収骨予定地沖は水深が深く、 海底の凹凸も激しいうえに、
海の流れも速いので昼間のみ錨泊して収骨作業を行うことになった。
ボート2隻に分乗して上陸したが成果はなかった。
作業終了後ワクデ島に向かい、 同日午後6時40分ワクデ島南岸沖に錨泊した。
ワクデ島では、 ワニが棲むという対岸のトム川を含めて、
2日間にわたって収骨作業を行った。 昭和19年5月、
連合軍を迎え撃って玉砕したワクデ島サウレマン川付近の激戦地は、
まったくのジャングルと化し、 海岸沿いのタコツボ陣地は雑草に覆われ、
海岸で見つけた手榴弾にはサンゴが密生していた。
この奥のジャングル内に遺骨があるという現地人
の情報で収骨に向かったが、 残念ながら1体も発見できなかった。
7月7日午後3時50分マッフィンを抜錨して再びサルミに向かい、
同日午後5時30分サルミに着いた。 サルミ地区では41体を収容し、
7月9日午後2時からニューギニヤでは初めての慰霊碑を建立し追悼式を行った。
慰霊碑は横長の花崗岩で、 磨かれた碑面の上段には横書きで大きく
「戦没日本人の碑」、 中段には 「昭和三十一年建之」、
下段には 「日本国政府」 と彫ってあった。
追悼式にはオランダ民政官ら現地官憲とその家族らも列席し、
神式、 キリスト教、 仏式の順で式をすすめた。
式の途中、 原住民が付近のジャングルにあったとサレコウベ
(髑髏) を持ってきたので碑の前に供えた。
ここで同乗の警察官4名が下船した。
7月9日午後4時50分サルミを発し、 ビアク島モクメルに向かった。
【ビアク島】
7月10日午前10時10分、 パイロットの嚮導でビアク島南東岸モクメルの桟橋に係留した。
ビアク島の南部には標高約100メートルの天てん水すい山と名付けられた小高い山がある。
この天水山から北東へ約30メートル下った谷間、
モクメルの北西約1.5キロメートルに西洞窟と呼ばれる深い洞窟があり、
ここに旧日本軍の司令部があったという。 その南の海岸沿いには飛行場があった。
連合軍は島の北岸のコンムイ湾、 東海岸のボスネック、
アントンから2度にわたって上陸を強行したが撃退され、
その都度、 上陸軍指揮官は交代し、 3度目の総攻撃でやっと島に取り付いたが海岸は彼我の戦死者で埋まったという。
西洞窟は地表から斜め下に向かう深さ50〜60メートル、
奥行き500〜600メートルの大鍾乳洞しょうにゅうどうで、
上部はうっそうとしたジャングルに覆われ、
その入り口は暗かった。 雑草を掻き分け洞窟に入ると天井に垂れ下がった鍾乳石からはポタポタと雫が落ち、
頭上を飛び交うコウモリの鋭い鳴き声が洞窟の冷気を震わせた。
水の溜まった地底には青黒く変色した無数の遺骨が散乱し、
その凄惨せいさんさに鳥肌が立った。 追いつめられた日本兵は、
この洞窟の中で水浸しのまま息絶えたのであろう、
さぞ無念だったろうと想うと私の手元は震え目はうるんだ。
西洞窟の東側に東洞窟がある。 洞窟の入り口には軍靴ぐ
ん かを履いたままの白骨体が横たわっていたが不思議と頭がない。
その靴を逆さにして振ると、 カラカラと乾いた音がして小さな足の骨が出てきた。
洞窟の奥には注射用アンプルが散乱し、 野戦病院跡を思わせた。
ビアク島では55体分の遺骨を収容し、 西洞窟上の丘で鉄板の上にうず高く積み上げて焼いた。
その跡に日本に向けて慰霊碑を建て追悼式を行った。
(次号に続く)
本稿は 「旅客船」 No.231に掲載されたものを、
旅客船協会のご好意により、 加筆訂正の上掲載させていただきました。
|