悲 劇 の 戦 時 標 準 船 大 愛 丸



「硝煙の海」 著者 菊 池 金 雄 (87歳)


                                                            


 筆者菊池さんは、 全船協ニュースでも取り上げた、 戦没船の調査記録 「硝煙の海」 を出版された元大同海運通信長で、 同書を御自身のホームページ http://www.geocities.jp/kaneojp/に全文掲載され、 さらにその後、 地道に戦没船の埋もれた消息を調査する傍ら、 生存者との交流活動を継続されている。

 昭和20年1月22日石川島造船所で竣工の大阪商船所属 (船舶運営会扱い) の大愛丸 (2A型戦時標準船6919トン) は、 海軍の指示で3月4日単独で室蘭に向けて出港したのですが、 3月10日釜石沖で敵潜水艦から雷撃されて沈没。 就航してから二ヶ月も経たない極めて短命の船でした。
 しかも、 乗組員70名全員が救出されることなく犠牲になるという悲劇的な戦時下の海難でありますが、 大阪商船側の下記事故・海難報告書からは事故の真相は解明されていないように感じられます。
戦没情報の入手先=不記載
護衛の有無=単独航行
搭載人馬物件損害の有無=戦死者上級14名普通57名 計71名
(名簿は70名で符合しない)
 航海実施及警戒情況=航行中挙船見張り警戒に当たり亦船砲隊員は、 戦闘準備を整へ其の警戒に怠りなかりしは想像に難からず。
 合戦の概況=3月10日夜敵潜水艦の雷撃を受け乗組員必死の応戦も甲斐なく、 遂に船体沈没し全員爆死せるか、 亦は、 本船沈没後残存乗組員が救命艇救命浮器、 其の他の浮流物に縛りて漂流中、 寒気と飢餓のため、 遂に、 全員戦死するに至れるものと、 認められる。  合戦後の処置及行動味方への報告=機密書類の処置に万全を期したるは勿論、 他艦船との連絡に尽きてもしつようなる処置を措たるものとおもわるるも無線電信破壊のため、 通信不能なりしものと思考す。
 さらに末尾には、 次のような痛恨の念が込められた記述があります。 「 水中聴音機、 電波探知機など各々その性能にして充分ならず、 以って多数船員並びに船舶資材を海底の藻屑と化せしむる 本邦科学界の貧困を物語るといえども、 沿岸地帯の哨戒も亦やや欠くる嫌い無きにしもあらず、 遂に本船の如き悲惨事を惹起す。 若しそれ天晴れなる戦死と言わんか、 否、 更に生還を得て益々邦家の為に献身せん事こそ吾等船員は願うなり。 こい願わくは、 これら船員の功績を暗瞑の内に葬らず、 大いに社会に称揚するは勿論、 彼等遺家族に対して酬ゆるに欠くる処なく、 これを期し以って忠霊をして在る処に迷わしめざらん事を希望す」。
 他方、 野間恒/商船が語る太平洋戦争に掲載の戦没船員リストには、 大愛丸戦没船員70名のうち, 40代は6名, 中山久男船長をはじめ30代が10名, そして20代が20名, 残りの半数は10代の少年たちで、 19歳・6名, 18歳・5名, 17歳・6名, 16歳・5名, 僅か15歳の少年がなんと9名, さらには14歳の子供が3名を数えています。

所見
 この大阪商船の事故報告書は戦時下で調整されたためか甚だ漠然として真相をつかみにくいきらいがあります。 例えば、 本件情報の入手先の記録が無いことと、 全員が戦死しているためか各欄の記載事項は、 想像的対応を羅列しているだけで、 その実態がつまびらかでないのです。
 更に、 当時のこの海域の海軍側護衛体制についても全く触れていない点が解せないものがあります。 当時の新造船には海軍警戒隊員が約20名派遣されているはずであるのに、 同報告書には陸軍船砲隊員が乗船となっています。
 私が各種サイトから収集した情報によれば、 昭和18年頃から釜石をはじめ、 三陸沿岸は、 米潜水艦が頻出するようになって、 付近を航行する民間船が攻撃を受けていたようです。
 それらを受けて、 宮城県女川防備隊 (釜石湾平田で沈んだ駆潜艇48号も所属) や岩手県山田湾航空基地隊 (零式観測機、 水上偵察機など配備) の設置など警備が強化されたようです。
 それなら当然大愛丸も間接的な護衛航路帯を航行していたことになるし、 これらの艦艇か、 または航空機が大愛丸の被雷〜沈没を目撃できたのではないか? なぜ誰一人救助できなかったのか? 多大なる疑問を感じたので過日、 防衛省防衛研究所図書館資料室に照会したところ12月5日、 以下の回答があった。
 日本側の同方面の海上護衛体制=資料無く不詳。
 米軍側の資料=当日の大愛丸の欄には該当潜水艦無く、 航空攻撃か?と記されている。
 また 「第二次大戦米国海軍作戦年誌には、 当日頃は付近海面では航空攻撃が出来るような米側機動部隊は行動していない。
 ……敵の攻撃によるものでなければ浮流機雷に触雷沈没等も考えられる。
 この回答でも謎が深まるばかりで、 海底の藻屑となった70名プラス警乗海・陸軍隊員の鎮魂のため、 是非真相解明に識者のお力添えをお願いしたいと思います。
 
一遺族が大愛丸慰霊碑建立

 私はかねて戦没船関係情報を収集中であるが、 最近、 下記の戦没船遺族の方のサイトhttp://www.geocities.jp/takehiro63/index.htmlに出会い、 船会社は別であるが生き残り船員のひとりとして感動しながら拝見した。
 そこで私は、 すぐサイト管理人と接触して、 自分の故郷は釜石の近在であるので、 帰省の折、 必ず同慰霊碑を参拝します、 と伝えるとともに過日 (10月) 釜石を訪問、 同慰霊碑を参拝して約束を果たした。
以下は同サイトからの引用です。
 一昨年 (平成13年) 八月に商船三井OB野間恒さんの自費出版された 『商船が語る太平洋戦争』 を見て、 小生六歳、 弟二歳の時、 父は大阪商船 (現在の商船三井) 所属の船舶・乗組員共々海軍に徴用され、 昭和20年3月10日に戦死した。 小生現在64歳にいたるまで父のことは太平洋戦争で戦死という事実だけで、 深く気に止めることもなく過ごしてまいりました。
 本の記述には 『大愛丸、 1945年』 とあり、 父の死亡年齢は32歳岩手県釜石沖で米軍潜水艦の雷撃を受け沈没したことを初めて知りました。 当時の大阪商船側の痛恨の念が込められた文章には、 乗組員70名全員が死亡した、 悲劇の船であったことがつづられています。
 戦没者70名の内訳は14歳から17歳までが16名、 20歳代まで含めると56名の若者が冷たい海の中に消えてゆきました。
 毎年終戦記念日が来ると特攻隊・戦艦大和・原爆などによる犠牲者を対象にした特集が日本国中でテレビ放映されています。
 人間の命の尊さはみんな同じはずです。 この70名の御霊に、 痛恨のおもいと、 鎮魂の念を込めて太平洋を望む岬に 『大愛丸の慰霊碑』 を建立致します。 ささやかな建立式と慰霊祭を平成15年10月4日 (土) 午後1時より現地でとり行います。

石碑設置場所
 岩手県釜石市大平町3丁目9−1
釜石大観音の前

設置工事
 石碑の運搬車両は釜石大観音の駐車場まで入ることが出来ますが、 設置場所までは急な下り坂の獣道 (けものみち) しかありません。 石碑の重量が4t。
 設置だけで、 総勢7名、 10日がかりでようやく完成にこぎつけました。