ペリー来航150年              


 西暦2003年はペリーが来航して150年目に当たります。 拙稿は、 平成16年 8 月28日、
愛知県東海市平洲記念館にて開催された「嚶鳴館」講座での話しを加筆修正したものです。
                       愛知県・半田市  大賀 清史

1. はじめに
 平成13 (2001) 年8月末、 私の住む愛知県半田市の海域である衣浦 (きぬうら) 港に、 「PORHATAN」 (LOA225m、 36,615トン) という船名の貨物船が入港しました。 船籍はリベリア、 積荷は中部電力が火力発電所で使用する燃料用石炭でした。 後ほど、 出港を担当された水先人の方に尋ねますと、 同船の船長はドイツ人、 用船主は韓国であった由。
典型的な今ふうの貨物船です。
 この船名を目にした途端、 私の現在の時の流れが止まり、 自身が約150年前の1854年にタイムスリップしたかのようでした。
 前年の1853年 6 月 3 日、 M.C.ペリー提督率いる四隻の黒船 (二隻は蒸気艦、 二隻は帆船) が、 浦賀沖に投錨しました。 旗艦は 「SUSQUEHANNA」 (2,450トン) です。 年が明けた翌年 1 月、 再度 M.C.ペリー提督率いる八隻 (後ほど一隻合流) の黒船が来航します。
 この二度目の来航時の旗艦が 「PORHATA-N」 (2,415トン) でした。 この 「PORHATAN」 こそ、 我が国の対米外交の生き証人とも言える蒸気船です。 また、 殆ど知られていない、 いくつかの逸話も残されていますから、 それらをご紹介しながら話しを展開してゆきます。
 尚、 これ以降の船名はカタカナで、 年代は西暦で表記します。





2. 鎖国体制下の日本と対外法令
 江戸時代を鎖国の時代と呼ぶ人もありますが、 “鎖国”という言葉は1801年になって初めて使われた用語です。 というのは、 志筑忠雄という蘭学者が、 ドイツ人ケンペェルの著作の中にある語句を翻訳した際の造語です。 江戸時代は決して、 海外からの情報が断絶した時代ではありませんでした。 以下のように海外に向かって開かれた窓口が四つありました。
@長崎:オランダ・中国からの情報取り入れ口。 特に、 長崎の 「出島」 にはオランダ人が常駐しており、 彼らの生活の場所を 「オランダ商館」 と呼び、 オランダ船が入港するたびに、 同商館長は幕府に<オランダ風説書>を提出することが義務付けられておりました。
A対馬:朝鮮からの情報取り入れ口。
B薩摩:琉球からの情報取り入れ口。
C松前:蝦夷・ロシアからの情報取り入れ口。
 1791年の 「寛政令」、 1806年の 「文化令」 は、 対ロシア穏健策でした。1808年、 英艦 「フェートン号」 が長崎に入港し事件を起こします。 この事件以降、 蘭船は長崎港外から小艇に曳航されて入港することになります。
*ケンペルは鎖国を肯定し、 哲学者カントも “賢明なこと”と断言しております。
* 「フェートン号」 事件とは、 英艦がオランダ国旗を掲げて入港し蘭人二人を拉致した事件です。 その背景には、 英蘭対立がありました。 責任を感じた長崎奉行松平康英と警備責任者の佐賀藩家老は切腹。 佐賀藩主鍋島斉直 (なりなお) は謹慎100日。
 この事件を契機に、 オランダ通詞にフランス語の学習を、 翌年、 英語とロシア語の兼習を命じます。 また英語の学習熱が高まり、 商館員に習うことになりますが思った程の成果はあがりませんでした。

 1825年 「文政令」 (異国船打ち払い令) が発令されます。 これは対外国強硬策でした。 沿岸に接近した異国船を“二念 (ふたごころ) なく”打ち払え、 との法令であったことから 「無二念打ち払い令」 とも呼ばれます。
 1837年米商船 「モリソン号」 が浦賀と山川の両港で、 この法令に基づき打ち払われます。 同船には尾張の漂流民である音吉・岩吉・久吉の三人が便乗しておりました。 幕府のこの措置を厳しく批判した者たち十数名がその後、 逮捕されます。
  「アヘン戦争」 を契機に1842年、 「天保薪水令」 が発令されます。 同法令は穏健策でした。 1845年米捕鯨船マンハッタン号が来航しました。 同船は11人の日本人漂流民を連れて江戸へ来ました。 これは、 米国人が初めて江戸の入り口まで来航した事例です。
 1846年には米国東インド艦隊の J.ビッドル提督が黒船二隻で来航し、 多くの日本人が見学のために乗船しました。 提督側は友好的であると同時に、 同艦隊は初の公的使節でした。 その前にこの艦隊は三河国の赤羽沖にも現れており、 藩主が参勤交代で留守の田原藩士の慌てた様子が、 古文書に書き残されています。
 1849年米艦プレブル号の長崎来航は、 漂流米国人の救助が目的でした。
 その頃、 北海道に漂着した捕鯨船に 「ローレンス号・ラゴダ号・プリマス号」 があります。 ペリー来航以前に、 捕鯨船を仲立ちとした米国とのこのような接触が何度かありました。

3. 尾張の回船 「宝順丸」 の遭難・漂流
 時代は遡りますが、 1832年11月、 尾張の回船 「宝順丸」 が江戸へ向けて鳥羽を出帆、 のち遠州灘で消息を絶ちます。
 彼らは14ヶ月も太平洋を漂流したのち、 生き残った三人 (音吉・岩吉・久吉) が今の北米ワシントン州に漂着します。 1834年、 この地で 「ラナルド・マクドナルド」 と言う青年が三人と会います。 スコットランド人の父親とインディアン・チヌーク族の母親との混血であった 「ラナルド」 は、 漂流者がインディアンに似ていることから日本に興味を持ち、 自分の人生を決定します。 1848年、 彼は捕鯨船の船員となり日本へ向かいます。
 それが日本へ行く最短の方法であったのです。 そのルートは、 焼尻島→利尻島でした。 しかし、 利尻島で身柄を拘束された 「ラナルド」 は、 宗谷→松前→長崎へと連行されます。
長崎での取調べは、 オランダ通詞の 「森山栄之助」 でした。 彼はラナルドから英語を学ぶことになります。 一方、 音吉は二度、 我が国の近海まで戻って来ますが、 結局入国を果たすことなく日本近海を去りました。 最近になって、 シンガポールにて彼の埋葬地が確認されました。 帰国を諦めた彼は、 聖書の日本語訳に取り掛かります。  

4. アメリカと太平洋
 1840年代のアメリカは、 世界最大の捕鯨国でした。 現在、 捕鯨反対を声高に叫ぶ現状から考えますと、 まるで嘘のような捕鯨大国でした。 700隻の捕鯨船と18,000人の捕鯨船員を擁しておりました。 アメリカ人は1788年に初めて太平洋で捕鯨を実施します。
 1820年代にはすでに大西洋の鯨が減少傾向にあり、 漁場を太平洋に求めた次第です。
 1846年、 イギリスがオレゴン州を放棄します。 1848年にはメキシコを破りカリフォルニアを獲得します。 その頃ロシアは、 流刑用候補地として 「シベリア」 に注目し、 「ラッコ」 を求めて北太平洋へ出てきます。 鯨油は蝋燭の原料、 髯は傘の骨組・スカートに膨らみを持たせるコルセットの骨組として利用されました。 「ラッコ」 は防寒・防水服の素材です。

5. アメリカ、 日本を目指す
 1812年、 米英戦争の間、 イギリスの捕鯨船を攻撃するために太平洋を巡航していた司令官の 「デビッド・ポーター」 は、 日本に遠征隊を派遣することを提案します。 それが採用され、 ペリーに日本行きを命じたのはホイッグ党 (共和党の前身) の13代フィルモア大統領でした。 彼は拡大路線をとります。 日本への航行中に民主党のピアーズに大統領が交代し、 施策も穏健外交へと政策転換します。
 合衆国憲法では、 軍の指揮権は大統領。 宣戦布告の権限は議会にありました。 大統領は、 ペリーに実弾発射の絶対的禁止を命令しております。
*ペリーは、 来日前にシーボルトの書いた<日本>、 ケンペルの<日本誌>、 ロシア人ゴローニンの<日本幽囚記>を読み、 我が国の国情や国民性をしっかり学習し、 旗艦のブリッジには伊能地図がチャートとして置かれていました。
 また漂流民の 「仙太郎」 を同乗させておりました。 彼はペリー艦隊では 「Sam Patch」 と呼ばれ、 三等水兵として勤務していました。
 彼は浦賀出帆後漂流したもので、 江戸湾海域には詳しかったと思われます。
 おそらくペリーは水先人として彼を活用しようとしたのでしょう。


 オランダ商館長 「クルチウス」 が提出した1852年 4 月 7 日付けのオランダ風説書には、 ペリーの来航を予告する内容が記されており、
「蒸気仕掛けの軍船シュスクガンナ号をはじめ、 サラトガ号など帆船四隻が唐国に集結。 シスシスシッピー、 この船に船将ペルレイまかりあり・・。」
とありました。
 同年 6 月、 オランダ国王の命により東インド総督の公文書が長崎奉行経由で幕府へ提出されます。 内容は 「アメリカが艦隊を派遣する」 というものです。 老中首座の 「阿部正弘」 は、 それを黙殺します。 要するに幕閣はペリーの来航を事前に知っていました。




6. 浦賀沖に来たペリー艦隊と通訳
 那覇港外にて、 旗艦のサスクェハンナ号はサラトガ号を、 ミシシッピー号はプリマス号をそれぞれ曳航し、 針路を浦賀に向けて出港しました。
 1853年 6 月 3 日夕刻、 曳航用の索を解き放ち、 四隻の黒船は船首を陸地に向けて投錨を完了します。
 総員合わせて988名の陣容で、 臨戦態勢をとっていました。 しかしそれは威圧のためであり提督は自国政府から“発砲禁止”の厳命を受け、 戦争を仕掛けることは出来ない状態でした。
 浦賀奉行は戸田伊豆守氏栄 (うじよし) と江戸詰めの井戸石見守弘道です。 この両人も、 来航するであろうことは知っておりました。
なお、 ペリー来航の 4 日後には、 水戸製の大砲75門のうち74門が江戸へ運び込まれます。 旗艦のサスクェハンナ号に乗っていた 「仙太郎」 は、 摂津国の千五百石積み船 「栄力丸」 の水夫で1850年10月、 大豆・小豆・小麦・干鰯を積んで浦賀を兵庫へ向けて出帆しました。
ところが、 紀伊半島の大王崎沖で遭難 (漂流) し、 53日後、 太平洋上で米国の商船オークランド号に救助され、 17人全員サンフランシスコに上陸します。
 乗組みの中の仙太郎だけが、 マカオか広東あたりでサスクェハンナ号に乗艦することになります。
 ペリーは、 交渉は旗艦のみで行う (再来航時の旗艦はポーハタン号)、 一度に三人しか乗船させない、 という強い方針で臨みました。 艦隊に真っ先にこぎ寄せた浦賀奉行所の応接掛与力の 「中島三郎助」 は、 手にした巻物を広げそれを掲げて見せます。 そこにはフランス語で 「貴艦は退却すべし、 危険を冒してここに碇泊すべからず」 と書かれておりました。
舷側からウイリアムは、 「最高位の役人にしか会わない」 とおぼつかない日本語で応答します。
 中島の乗る短艇の通訳であるオランダ通詞の堀達之助が 「私はオランダ語が話せる」 と精一杯の英語で叫ぶと、 中島と通訳の乗艦が許されます。
 二人はブキャナン中佐の部屋へ通されました。 対応したのは、 副官の 「コンティ」 大尉とオランダ語通訳 「ホイットマン」 でした。 彼は、 上海で雇われました。
 翌日からは浦賀奉行を演じた与力の 「香山栄左衛門」 に代わります。 通訳と二人がブキャナンの部屋へ通され、 いよいよ交渉が始まりました。
 その立場を“ガバナー”と訳された香山栄左衛門は、 「長崎へ行け」 と言います。
 彼らは、 「艦隊はカリフォルニアから来た、 江戸へ乗り入れる、 アメリカからは20日で
来ることが可能」 と応じます。
 幕府の意思を、 香山栄左衛門の通訳がオランダ語でホイットマンに伝える。 ホイットマンはそれを英語で艦隊首脳部に伝える。 意志の疎通には、 こんな方法が取られたのです。  これを“三国間通訳”と言います。
 ペリー対策に大わらわとなった幕府は、 6 月 6 日、 江戸城大広間にて在府の大名と旗本700人が参加する大評定を開きました。
国書の受領前の状況分析は、
・四隻の黒船は強大な軍事力だが、 彼らには戦意と補給路がない。
・石炭の補給が狙いだから要求を聞いてやるべし。
・アメリカの事情に詳しい万次郎を登用すべし。          
でした。
 オランダ商館長より提出される<オランダ風説書>と<唐風説書>とから、 幕閣は意外に海外の情勢を認識しておりましたし、 アヘン戦争で、 海軍力を持たない清国が完敗したことも知っておりました。
 国書の受領は、 久里浜に突貫工事で作られた応接所で、 来航 7 日目の 6 月 9 日に行われました。 艦隊側は、 上陸する兵300名を抽選で決定しております。 国書はオランダ語訳と中国語訳の二種類です。
 幕府は両者を和訳し、 一字一句を逐一、 比較・検討・点検しました。 授受の 3 日後、 ペリーは去ります。 その10日後、 12代将軍家慶が他界し、 子息の家定が13代将軍に就任します。
 阿部正弘はこれを機に 「海防参与」 を新設し、 水戸の徳川斉昭を任命すると同時に、 12箇所のお台場建設を計画します。 建設資金の予算75万両は商人からの献金で賄う腹積もりでした。
 大砲は、 徳川斉昭に出させます。 斉昭はそのため、 水戸の各寺院から釣鐘を拠出させました。 従って今でも水戸 (茨城県) の寺院には釣鐘がない、 と言われます。
 受領後は、 幕府内世論も“外洋船を造るべし”が大勢となり、 同年10月、 大船建造禁止令を解除します。 と同時に、 オランダより蒸気軍艦を七隻購入することを決定します。
 同年11月には、 阿部正弘の計らいで万次郎が江戸へ呼ばれました。
 これは、 幕閣がアメリカの事情を聞くためです。 苗字帯刀を許された 「中浜万次郎」 の待遇は、 20俵二人扶持御普請役格というものでした。 土佐の一漂流漁民が士分に出世したのです。
 万次郎は琉球に漂着を装って上陸したため、 その身柄は鹿児島城下に送られ、 そこで藩主島津斉彬 (なりあきら) の尋問を受けました。 もしかしたらこれが、 “斉彬は開明大名”と言われる遠因かも知れません。
 一方、 水戸の斉昭らは万次郎をアメリカの手先とみなして警戒し、 通訳・航海士として活躍する機会は、 1860年の咸臨丸の渡米まで与えられませんでした。

7. 再来航そして条約締結、 帰国   
 翌年の 1 月 6 日、 再来航します。 この時、 続航するマケドニア号 (1,341トン) が、 浦賀水道で座礁し、 幕府と彦根藩が自発的な救助活動を行います。 また、 ペリーの体調不良を伝え聞いた幕府は、 病気見舞いとして<大根、 ミカン、 鶏、 卵>を多数送ります。 艦隊は測量等をしながら28日には羽田沖まで来ます。
 この時、 「Sam Patch」 が持つ江戸湾内の海事知識が、 航路選定に役立ったものと思われます。 2 月10日横浜上陸。 その時、 ペリーと幕府側の代表である林大学頭との間で、 以下のような応答がありました。

【林大学頭】薪・水・石炭の提供は了解。 漂流民の救助も了解。
『ペリー』 乗組員が一人病死した。 どんな法律があるか教えてほしい。 島に埋葬してよいか。
【林大学頭】無人島に葬るのは不憫。
『ペリー』 交易すれば国が富む。
【林大学頭】我が国は産物が豊富で外国に頼る必要がない。
『ペリー』 ・・・。

 こんなやり取りで、 通商条約は議題に昇ることはありませんでした。
 なお、 ペリーのお土産は、 1/4の大きさの蒸気機関車、 2km 分のレール、 鋤、 鍬、 野菜の種子でした。 見返りとして、 漆塗りの箪笥、 植物の種子、 和船を希望しましたが、 送られたのは、 主に米と酒でした。 米俵を運んだのは力士で、 艦隊側は彼らの大きさに肝を潰しました。
 2 月末ペリーは、 日本側全権をポーハタン号に招待し会食を催します。 酒に酔った松崎純倹という委員は、 ペリーの首に抱きつき何かを繰り返し言ったようです。
 この言葉は通訳により 「Nippon and America all the same heart」 と訳されました。
 恐らく 「日米一心」 とか 「日米同心」 と言ったのでしょう。
 3 月 3 日、 旗艦ポーハタン号上で“日米和親条約”が締結されます。 松崎純倹は、 同条約の漢訳者でもありました。
 条約草案は漢文で書かれ、 それにオランダ語の訳文がつけられました。
 条約文は、 帆船 「サラトガ号」 でハワイ経由の太平洋ルートで本国にもたらされます。
 これにより、 215年間続いた所謂“鎖国”状態が終了し、 下田と箱館の開港が決まりました。
 艦隊が下田沖に錨泊中の 3 月27日夜、 吉田松陰・金子重輔の渡米未遂事件が起こります。 松陰らは下田の海岸で漁舟を無断借用し、 黒船に近づきます。 「われらメリケンへ行かんと欲す」 と漢字で書いてみせたようですが、 その黒船ミシシッピー号の乗組員からポーハタン号へ行けと、 手マネで指示されました。 松陰らはポーハタン号までこぎ寄せ、 船内では日本語のわかるウイリアムズが応対しました。 真相は別にあったようですが、 結果として渡航を拒否され、 水兵に海岸まで送り届けられました。 松陰は以前から持論の“海戦作”として、 「小舟に枯れ草を積んでそれに油をかけ火をつけて黒船に衝突させ、 縄ばしごを昇って皆殺しにすればよい」 と強く主張しておりました。
 その松蔭が、 黒船を見た印象をこう記しました。 「兵学者は不学無術の佞人なり」 と。
 従来の兵学がいかに無益・無役・無駄・無意味であったかを自覚したのです。 渡航に失敗し、 自首した二人は故郷の萩に送られ、 10月24日、 松蔭は士族用の野山獄へ、 重輔は庶民用の岩倉獄へ投獄されます。 仮出獄の間に 「松下村塾」 で講義を行いました。
 条約の締結に成功した艦隊は引き上げます。 ペリーは香港までは艦隊で。 その後、 英の郵便船ヒンドスタン号に便乗してシンガポール、 スエズまで。 以下、 地中海、 ヨーロッパを経由して1855年 1 月11日帰国しました。 その僅か3年後の1858年 3 月 4 日他界します。
 “開国させる”という国家的使命に生命を賭けたのです。 享年64でした。

8. マシュー・カルブレイス・ペリーとはどんな人?
 ペリーは、 1794年 4 月10日、 ロードアイランド州ニューポートで生まれました。 父親は商船の船長経験者でもあります。 14歳で海軍士官候補生になります。 英・仏に比べて蒸気軍艦の貧弱さを痛感した彼は、 それの研究に没頭し、 アメリカ最初の蒸気軍艦 「フルトンU」 の艦長を拝命します。
 当時のアメリカでは、 黒人奴隷を祖国アフリカへ戻そうとする運動が盛んでした。
 クエーカー教徒でもあったペリーは志願してこの運動に参加し、 黒人をアフリカに再移民させて新国家の建設を図ります。 こうして建国されたのが 「リベリア共和国」 です。 ここに、 星条旗とリベリア国旗が酷似している理由があります。 なお、 ペリー時代のアメリカ合衆国は31の州からなり、 当然星条旗の星の数は31でした。 因みに、 有名なクエーカー教徒には、 今上陛下が皇太子時代の12歳から15歳の間の家庭教師である 「ヴァイニング」 夫人があります。 皇太子殿下が御結婚の砌、 招待された唯一の外国の方です。
 さて、 1852年11月24日、 ミシシッピー号でペリーはチェサピーク湾を出航します。
 積んだ石炭は600トン。 マディラ諸島まで 7 ノットを維持。 そこで440トンの石炭と 1 万ガロンの水 (1 ガロン=3.8リットル)、 6 頭の去勢牛を積みます。
 貿易風がやむと蒸気力で航海しました。 次はセントヘレナ島のジェームズタウンで補炭。 13日後、 南アフリカのテーブル湾へ。 そこで石炭補給船と合流し、 不足分はイギリスから購入する予定でした。 12頭の去勢牛と18頭の羊も積み込み出航します。
 喜望峰を回り15日かけて2月18日モーリシャスへ。 その後、 セイロンの 「ポイント・デ・ガル」 へ。
3 月25日、 マラッカ海峡は水先人の嚮導のもと通峡します。 シンガポールで補炭後、 4 月17日マカオ着。 同地で補炭、 香港で給水。 4 月27日水先人を乗せてミシッシピー号は上海へ。
 ペリーは壊血病対策として、 部下にウイスキーとライムジュースと水・砂糖を混ぜたジュースを支給しておりました。
 艦隊が上海入港中、 幕府は、 「1852年アメリカが蒸気船を含む四隻を浦賀に派遣」 という情報を入手しております。 1853年 7 月 2 日、 那覇を浦賀向け出航。 (ここまでの日付は西暦) このような経路を辿って艦隊は、 遙々我が国までやって来たのでした。
 ペリーは日本の政体を、“皇帝が二人いる”国と見抜いておりました。
 過日、 ある著名な歴史作家が、 「太平洋の荒波を乗り越えてやって来たペリーは・・・」 と言いましたがそれは間違いです。

9. 外交は駆け引き
 幕府側も艦隊側もどちらも大きな"悩み"を抱えておりました。  
 ペリー側の悩みは、 @補給は可能か? A交渉に何語を使うか? B江戸湾の水深が不明 C銃砲の発砲禁止命令
 幕府側のそれは、 @戦力の大きな差 A海軍がない Bオランダ語以外わからない C江戸湾が封鎖される
 特に艦隊側の最大の苦悩は、 本国政府からペリーには、 "戦争を仕掛ける権限が与えられていない"ということでした。 当時の合衆国憲法では、 議会に出兵権・交戦権がありました。
 従って、 ペリーには戦争を仕掛ける権限がなかったのです。
 このことを絶対に隠し通す必要がありました。 それを押し隠して、 武力行使もありうることを臭わせながらの交渉です。 また、 悩みという程のことでもありませんが、 幕府への贈答品を積んだ船が未到着という点も頭痛の種でした。
 幕府側は、 大都市江戸の“喉もと”である浦賀水道という大動脈を封鎖されたことに対する不安です。 海上輸送が絶たれ、 それが長引けば長引くほど江戸の食料危機や物不足等が、 現実のものになります。 浦賀水道を遡航する数は、 平均して日に67隻とペリー側は、 記録しており、 それほど海上交通・海上輸送は重要でした。 人口百万を擁する大消費都市江戸の繁栄は、 当時すでに“船便”によって支えられておりました。
 しかし状況の分析は、 @黒船四隻は強大な軍事力だが、 戦意がない。 A彼らには補給路がない。 B来航の真の狙いは補給路の確保にある、 でした。
 “幕府は無策であった”とか“老中主座の阿部伊勢守正弘は無能であった”と悪く言う学者が殆どです。 しかし、 当時の幕閣は最大限の努力、 それも国益を考えた上での最善の努力をしているかのようでした。 もし本当に無策であったならば、 もっともっと不利な条約を結ばされていたことでしょう。 外交に不慣れながら、 よく持ちこたえたものです。

10. “ポーハタン”こぼれ話し等
 1858年 6 月、 ポーハタン号上で、 日米修好通商条約が締結されました。 1860年 2 月、 同条約批准のため、 全権の外国奉行新見正興一行が、 同号に乗って米国に行きます。 これは、 我が国初めての遣米使節団でした。
 その護衛というか随行艦として咸臨丸が従います。 と言っても先航しますが・・・。
 咸臨丸の往航は、 便乗していた米海軍測量船フェニモア・クーパー号の船長であったジョン・ブルック大尉以下11名の士官と水兵の尽力で無事サンフランシスコに到着します。
 航海中、 艦内の指揮系統に乱れがあることに気がついた同船長は、 有能な数人に士官教育を施します。 ブルック船長の操舵号令は、 万次郎が日本語に訳して伝えました。
 「中浜万次郎」 の他に 「小野友五郎」 「浜口与右衛門」 の両人は特に優れておりましたが、 勝 海舟は艦長という立場にありながら往復の航海とも責任を果たし得ず、 殆ど自室を出ることなく、 時々的はずれの勝手な言動をとって他を困らせるだけで、 全く用をなしませんでした。 それどころか、 ブルック船長の便乗に最後の最後まで反対したのが勝でした。
すべての乗組員は、 勝の無責任ぶりに閉口していたようです。
 復航の成功は、 偏に、 友五郎と与右衛門そして何より万次郎の優れた航海術の賜物でした。
 同乗していた福沢諭吉は、 勝の我が侭な言動をそばで具 (つぶさ) に見て嫌気を感じ、 今後末長く勝を軽蔑するようになります。
 因みに、 江戸城の"無血開城"には勝の功績が挙げられますが、 西郷-勝の会談で攻撃が中止されたわけではありません。 その頃横浜にいた英公使パークスの強い反対があったために、 西郷としては江戸攻撃を決断できなかっただけのことです。
 勝の残した、 <氷川清話>の一節に 「また万延年間に、 おれが咸臨丸に乗って、 外国人の手は少しも借らないでアメリカへ行ったのは、 日本の軍艦が外国へ航海した初めだ」 とか 「幾たびか風雨のために難船しかかったけれども、 乗組員いずれもかねて覚悟の上のことではあり、 かつは血気盛りのものばかりだったから、 さほど心配もしなかった。 おれの病気もまた熱のために吐血したこともたびたびあったけれど、 ちっとも気にかけないでおいたら、 サンフランシスコへ着くころには、 自然に全快してしまった」 と、 艦内での思い出話しを多くの点で勇ましく、 まるですべてを己の手柄の如くに回顧していますが、 この部分も含めて内容は大風呂敷で、 マユツバもののホラ話し・自慢話しに過ぎません。 自己顕示欲が強いだけの艦長の勝には、 外洋を航行するだけの操船術と、 航海者としての責任感や義務感が完全に欠落しておりました。
 高校の教科書をはじめ多くの歴史家や作家は、 勝を過大評価しております。 勝の業績と言われているものすべてを再検討し、 その実像を明らかにしなければなりません。
 
 半田の港 (碧南の岸壁) に接岸した現代の貨物船ポーハタン号を遠望しながら、 外圧に必死で抵抗した幕閣の苦悩を思いやりました。 彼ら、 特に老中阿部正弘はよくやりました。
 彼は25歳の若さで老中職に就いております。 長く政権を担当できた理由は、 若くて男前、 そして何より大奥からの受けがよかったようです。 1855年10月の大地震で邸宅が倒壊します。 正妻は左手骨折、 側室は圧死しました。 被害が甚大であったため、 一時、 権力を久世大和守に委譲したほどです。
 対米折衝に精魂を使い果たした彼は、 人が変わるほど痩せたと言われます。 心配した水戸の斉昭が、 健康回復のために“牛乳”を勧めた、 という逸話が残っています。
 彼は、 1857年 6 月この世を去りました。 享年39でした。 ペリー同様、 文字通り命を削って任務を全うしたのでした。
 居城は、 備後福山城 (広島県) です。 「人たる者、 すべからく教育を受けるべし」 と常に言っていたようで、 退任後、 故国に学び舎"誠之 館"を開きます。 決して対米追従しなかった当時の幕閣。
 昨今の高校日本史の教科書からは読み取ることはできませんが、 先人が命を賭けた、“知られざる外交”をもっと表舞台へ出さなければなりません。 それは、 終始一貫してペリー艦隊の一員として行動した漂流民 「Sam Patch」 についても言えそうな気がします。
 なお 「Sam Patch」 は明治になって帰国を果たし、 今は、 東京文京区大塚にある 「本傳寺」 に眠っております。
                        
                            
 貨物船ポーハタン号は、 再度石炭を積み込むため、 8 月27日朝、 豪州向け出港しました。 因みに“ポーハタン”とは、 北米インディアンの一種族の名前です。 この船名を聞けば、 インディアンの血を引く 「ラナルド・マクドナルド」 が何より喜びそうです。

【附その一】
 ペリーの 「遠征記」 には、 日本人の航海術や港内設備のことがよく出てきます。
 その一例を挙げますと 「沿岸のあらゆる岩礁を熟知している水先案内は海図を必要とせず、 彼等の用心深い航海に相応しく船舶を万事安全に案内する。 あらゆる港には、 どんなに小さい港にでも日本船を繋ぐ便利なものがあって、 索を通すために、 岩の角々には人工的に穴が穿たれて居り、 又これを使用し得ない場所には、 石を切り・・・」
(ペルリ提督日本遠征記549ページ)
 この記述を読んで、 昨年見学した石川県の福浦 (ふくら) 湊を思い出しました。 ここには、 当地で“めぐり”と呼ばれるかなりの数の繋留用の穴が、 自然石に穿 (うが) たれています。 それらは、 現在の繋留用ビットとして用いられただけではなく、 場所的に考えて入津用や出帆用に利用されたと考えるほうが妥当なものもあります。
                 
            写真は伊良湖三河湾水先区の水先人金津健歩船長に提供して頂きました。

【附その二】
 近々世界遺産に登録される島根県の 「石見銀山」 より産出される銀を舟積みした温泉津 (ゆのつ) 湊にも同じ施設が多くあり、 当地ではこの穴を“はなぐり岩”と呼ぶ、 と元伊良湖三河湾水先人の遠沢 葆 船長よりご教示いただきました。
  「めぐり」 と 「はなぐり」 面白い表現です。

参考史料
・ペルリ提督日本遠征記
・徳川実記

(著者は大島商船学校航海科第26期生、 故大賀清春氏のご子息です。)