
クルーズ客船「飛鳥」乗船記(第2回)
元東京商船大学教授
元航海訓練所練習船船長
医学博士
橋 本 進
【パナマ運河概史】
1867年、 スエズ運河の開通に成功したフランスは国際海洋運河会社を設立し、
パナマ運河計画に着手するためコロンビア政府と協定を結んだが、
その後数年で破綻はたんを来した。
当時のアメリカでは、 この運河に対する目的が他の国とは異なっていた。
カリフォルニアを獲得し、 米西 (アメリカ・スペイン)
戦争後の政治的・軍事的利用のため、 アメリカ支配下での運河建設が主張されていたのである。 コロンビア政府はアメリカがパナマ運河建設を表明するや、
ただちにそれに反発した。 そのためこの計画も困難視されていたが、
幸運にもその頃パナマはコロンビアからの独立を希望していたので、
当然アメリカはこれを大いに援助した。
1903年 (明治36年) 11月、 ついにパナマはコロンビアからの独立を宣言、
アメリカがただちにこれを承認したため、 コロンビアもパナマの独立を認めざるを得ずここにパナマ共和国が誕生した。
ついでアメリカはパナマ政府と協定を結び、
運河地帯 (運河と運河沿いの両岸それぞれ 8
キロメートル) に関する全主権を永久にアメリカの支配下に置くことを決め、
その補償金として1,000万ドルをパナマ政府に支払った。
運河の権利を獲得したアメリカは技術調査の後、
軍部の協力を得て工事に着手し、 3 億3,700万ドルの費用と10年の歳月をかけて、
1914年 (大正3年) 8 月15日に開通した。 この日は汽船
「アンコン」 が初めてパナマ運河を通航した日である。
1914年の工事完了後、 従来の 「パナマ地峡運河委員会」
は廃止され運河の運営は 「パナマ運河」 と呼ばれる機関に引き継がれ、
運河はこの機関と 「パナマ鉄道会社」 の共同運営となった。
1951年、 共同運営に企業的な管理・経営手法を導入するため組織内で再編成が行われ、
「パナマ鉄道会社」 が 「パナマ運河会社」
に替わり運河の維持と管理を引き継いだ。 また、
「パナマ運河」 に替わり 「運河地帯政府」
と呼ばれる組織が当地帯の統治機能を引き継いだ。 1977年、
新パナマ条約 (トリホス・カーター条約) が署名され1979年に施行後、
パナマ運河の運営は新しい段階に入った。 これまでのすべての組織は解散され、
新しい 「パナマ運河委員会」 が運河運営の役割を担うことになった。
この条約により、 それまでカナル・ゾーン (Canal
Zone) と呼ばれていたアメリカ運河地帯はパナマ共和国に返還され、
パナマ国法が適用されることになった。
パナマ共和国はこれらの責任を果たすために1997年
6 月11日共和国憲法によって 「パナマ運河庁
(ACP Autoridad del Canal dePanama)」
を設立した。
1999年12月31日午後12時、パナマ運河の運営・機能・維持管理等すべての責務がパナマ共和国に引き渡された。現在、「パナマ運河庁」
はパナマ運河の運営・経営・機能・保存・維持・改善、また、近代化とこれらに関連する活動とサービスを行っている。
【パナマ運河の特徴】
@ ガツン・ダム
ガツン・ダムはカリブ海に流れ込むチャグレス川の深い谷を、
両側の小高い山をつないで作った堰堤えんていである。
また、 この堰堤は運河掘削によって出た岩石をパナマ鉄道で運搬して築造したものである。
ダムの長さは約2.4キロメートル、 基底の幅は約800メートル、
湖水の水位を調整するための水門は14個あり、
ガツン湖はこのダムによってできた人造湖で標準水位は海抜26メートル、
雨期の水位は26.50メートル、 乾燥期の終りは25メートルであった。
パナマ運河庁は、 ガツン湖の貯水量を増大し運河流域の効率を高めるため、
2002年 3 月より既存の航行水路の掘削作業を開始した。
水路より約670万立方メートルの土石を浚渫し、
水域の貯水能力を日毎に約11.4億リットル増加させようとするものである。
淡水の貯水量拡大は、 国民の飲料水の確保とともに商業および産業利用に資そうとするものである。
A ゲイラード・カット
ゲイラード・カット (切り通し) はパナマ地峡の分水嶺を掘り抜いている。
切り通しが突き抜けている山脈の中で最低の尾根が海抜95メートルあり、
運河の河床まで82.30メートルも掘り下げており、
運河の幅は91メートル、 長さは12.60キロメートルある。
この掘削工事は運河建設の最大の難所となり多くの犠牲者を出した。
ゲイラードの名は運河工事の責任者であったデイビッド・デューボーズ・ゲイラード大佐にちなんでつけられた。
このゲイラード・カットの最初の拡幅工事は1954〜1970年間に行われ、
従来の91メートル幅から152メートルに拡げた。
その工事中の1963年にはカットに蛍光灯を設備し運河の24時間運営が始まった。
さらに拡張工事はつづけられ、 2001年11月の終了時には直線部分を152メートルから最低192メートルに、
曲線箇所は222メートルにまで拡幅された。 その結果、
船幅の広い船舶でも安全に行き交うことができるようになった。
B ロック
海面上の船をガツン湖の水位まで押し上げ、
あるいは海面まで下げるのがパナマ運河最大の特色であるロック
(閘門こうもん) である。 ロックは大西洋側、
太平洋側にそれぞれ 3 か所あり、 さらに平行に
2 組ずつあるので両方向の航行が可能である。
ロック内の水槽への注・排水によって、 海抜26メートルのガツン湖に通じる。
つまり、 ガツン湖の湖水の重力とロックを利用して階段式に船を運ぼうというものであり、
動力によるポンプ類は使用していない。 それが
「水の階段」 と呼ばれるゆえんである。
閘門の水槽の大きさは幅33.50メートル、 長さ305メートルである。
そして、 通常航行の船舶の最大許容範囲は全長294.13メートル、
船幅32.31メートル、 喫水12.04メートルとなっている。
閘門1回の開閉で排水する淡水は1億9,700百万リットル、
ガツン湖の1日の排水量は700〜800万トンである。
午後1時過ぎ、 ふたたびパイロット及びキャナルセーラが乗船し、
ガツン湖の南口のペデロミゲルロックを下ってミラフローレス湖に入った。
ミラフローレスロックの最下段の扉はパナマ運河の40組のなかで最も大きく、
高さ25メートル、 重さ730トンもある。 その理由は太平洋側の潮の干満が大きいからである。
午後11時過ぎロッドマン港とバルボア港に架かるアメリカ橋をくぐって太平洋に出た。
6 月21日 (火)
午前10時から 6 デッキ・グランドホールで 「星と航海」
の第1回講演を行った。 その内容は、 人間と星の関わり合い、
星が航海にいつ頃からどのように利用されたか、
現在の航海に星は利用されているのだろうか等々を
3回に分けて話そうというものである。
夕食は 8 階のリド・デッキでメキシカン・デッキ・ディナーが開かれた。
テキーラも飲めるメキシコ風バイキング料理である。
午後10時から予定していたスカイデッキでの星を見る会は曇天のため中止した。
6 月22日 (水)
午前6時過ぎパイロットが乗船しコスタリカ・プンタレナス港桟橋に着いた。
コスタリカ (Costa Rica) 共和国はカリブ海と太平洋岸に美しいビーチを持ち、
面積は約51,000平方キロメートルあり四国と九州を合わせた広さである。
国名のコスタ (Costa) は海岸を、 リカ (Rica)
は豊かさを意味し、 この名はコロンブスの最後の航海となった4度目の探検航海中に
「豊かな海岸」 と名付けられたことに始まるという。
午後6時10分、 上陸者全員が帰船したところで直ちに出港した。
6 月23日 (木)
午前10時から 「咸臨丸の航海」 と題した講演を行った。
内容は咸臨丸内の木村摂津守、 勝麟太郎、 福沢諭吉、
キャプテン・ブルック、 中浜万次郎たちの隠れた人間像、
咸臨丸と帆船日本丸の航跡を比較検討するものである。
本日予定していた星を見る会は曇天のため順延となった。
6 月25日 (土)
午前10時より 「星と航海」 2 回目の講演を行った。
星を見る会、 曇天のため順延。
6 月27日 (月)
午後10時30分より星を見る会を実施した。
ときどき雲がかかったものの、 きれいな星空が観測された。
目を暗順応させるための工夫はしたが、 「こんなにきれいな星を見たのは子供のとき以来」、
「北斗七星・北極星がこんなに青白く光っているとは思わなかった」、
「天の川は感動的」 等々の感想が寄せられた。
6 月28日 (火)
午前10時より 「星と航海」 の最終講演を行った。
なお、 これまでの質問に対して総合的な解答を行った。
夜間に計画していた私の最後の星を見る会は曇天のため中止となった。
6 月29日 (水)
午前 5 時パイロットが乗船し、 濃霧のなかをサンフランシスコ港内に向かい、
午前 6 時30分ピア50に繋岸した。 午前 7 時から入国審査が厳重に行われた。
午前 9 時飛鳥を下船してサンフランシスコ空港に向かい、
午後 1 時発のJAL001便に搭乗し、 6 月30日午後
3 時20分成田空港に帰着した。
5 「飛鳥」 随想
クルーズ講師
最初に述べたように、 レイキャビクからサンフランシスコまでの間、
講師として飛鳥に乗船の打診があったのは 2
月下旬のことであった。
ここで考えたことは、 講演内容は自分の生きてきた
「海」 と 「船」 に関することに絞り、 さらに、
講演の要約 (レジュメ) を船客に配布し後々の参考にしていただくことであった。
そのため、 レジュメを作成して 3 月24日までに本社担当者に送付し、
担当者は一括印刷して 4 月 6 日横浜出港の飛鳥に積み込むというハードスケジュールになった。
講演の詳細は航海概要のなかで述べたとおりであるが、
これらの企画は結果的に成功したと思っている。
船客情報
今回の飛鳥世界一周クルーズの船客情報は船内発表によると次のとおりである。
○総船客数 421名 (平均年齢 70・1歳)
男性 187名 (44%)
女性 234名 (56%)
○一周客 409名 (平均年齢 70.2歳)
男性 181名 (44%) (72.1歳)
女性 228名 (56%) (68.8歳)
シングル客 76名 (19%) (71.6歳)
○一周客最高齢92歳、 最年少19歳
○年齢別 90代… 2名
80代… 30名
70代…191名
60代…168名 (以上で96%)
50代… 13名
40代… 2名
30・20・10代…各 1 名
以上の集計から単純計算すると、 キャビン総数は296でシングル客は76名であるから、
残り220がダブルで使用できるキャビン数である。
このキャビン数と乗客数から、 客室利用率はおよそ82%強程度と思われる。
また、 船客の平均年齢は70.1歳、 男女の構成比は44対56と女性が10%も上回り、
年齢別では一周客の96%を60歳以上の戦前・戦中派が占めている。
船内生活
@ディナータイム
クルーズの大きな楽しみの一つは"ディナータイム"であると何かの本で読んだことがある。
飛鳥の場合、 ディナータイムは 2 回に分けられ、
第 1 回は午後 5 時15分から午後 6 時45分まで、
第 2 回は午後 7 時15分から午後 8 時45分となっている。
だから、 第 1 回のグループと第 2 回のグループが一緒のテーブルに着くことはない。
あるとき、 第 1 回のメンバーの招待を受けたので受付
(レセプション) に申し入れたところそれは駄目だという。
第 1 回のメンバーは第 2 回に入ることはできるが、
第 2 回のメンバーは第 1 回に入ることはできないという。
恐らく社内規定に従っての措置であろうと思い、
招待された事情を話して許されはしたものの、
何か釈然としないものが残った。
Aディナーのメンバーとテーブル
聞くところによると、 第 1 回・第 2 回のディナータイムとも、
最初は決まったメンバーや決まったテーブルはなかったそうであるが、
一周航海も半ばを過ぎると気のあった者同士が好きなテーブルを選んでディナーを楽しんでいるという。
だから、 メンバーもテーブルの場所もだいたい決まるそうで、
互いにその領域を尊重するようになっているという。
B食事
朝食と昼食について、 和食は 5 デッキのダイニングルームで、
洋食は 8 デッキのリド・カフェで自由に摂ることができた。
そんなこともあってか、 昼食時の招待にはディナーのときのような堅苦しさはなかった。
ディナーにも工夫がなされ、 時にはメキシカン・デッキ・ディナーやアメリカン・デッキ・ディナーで船客を楽しませていた。
食事の内容はバラエティーに富み豪華な印象を受けた。
ところが、 船客が60歳以上の高齢者が多かったせいか、
内容はヘルシーな食材を使用していると見受けられた。
その証拠に約 4 週間、 十分に食事を摂りながらも私の体重は増えなかった。
C船内の催し
船内生活は講演のほかに、 さまざまな催し物を企画して船客を退屈させないように工夫されている。
航海中のデイタイムには俳句、 カード、 手芸、
気功などなどのクラブ活動が盛んで、 ディナー後は
6 デッキのグランドホールではコンサートありオペラあり、
落語もあった。 同じデッキのシアター (映画館)
では洋画や邦画も上映されていた。
D乗船客
総じて、 普通の人たちが普通の 「船旅ふなたび」
を楽しんでいるという印象を受けた。 一般に、
クルーズ旅行は 「費用が高い」 と思われがちだが、
今回のクルーズに参加していた方が語ってくれたように、
「一泊 5 〜 6 万円の設備が整ったホテルで、
普段の生活から解放されて気ままに過ごしながら各地を見学し、
その間に豊富な自然と接することができると思えば安いものですよ。」
と考えれば、 案外、 気楽にクルーズ旅行を楽しめるのではないかと思った。
クルーズ旅行会社の宣伝方法にも一考の余地がありそうだ。
雑談のなかから
単身乗船だったこともあって食事は思うままにテーブルを移動し、
また、 請われればそのグループに参加していろいろ話を聞くことができた。
その一端を披露すると、
@ ハンディキャップを持つ人は夫婦で乗船していたが、
元気な年配者から勇気を与えられているという。
A 自分たちの部屋は朝起きてから夜寝るまで、
忠実で働き者のメード (フィリピン出身) がきっちりと掃除してくれ、
食事は 3 食とも上げ膳・据え膳で、 食事の用意、
あと片付けの心配はない。 この生活を一度経験すると女は病みつきになる。
(男性)
B 船の中は安全なので、 女ひとり酒を飲もうがダンスに興じようが楽しい夜が送れる。
C 誰に遠慮・気兼ねすることなくおしゃれができる。
(女性)
D 自分のペースで生活ができるので、 ストレスが溜まらない。
(男女とも)
E 高い運賃を支払っている船客、 つまりエリート階級
(…と思っている人たちも含めて) の人たちにリッチな気分を味わってもらうためにディナータイムを2回にしているのでしょうが、
2回目のほうが楽しいですよ。 (男性)
F 各寄港地でのオプショナル・ツアー (各人が別料金で自由に参加できる小旅行)
は高すぎる。 (男女とも)
G 船旅も後半を過ぎるとディナーテーブルでの話題が乏しくなる。
(男女とも)
H 帰ってからの食事が大変です。 (女性)
等々であった。
飛鳥の船橋
実のところ、 飛鳥に乗船して一番見たかった場所である。
レイキャビクで船長へ挨拶にうかがったとき、
出入港時および航海中の船橋見学の許可をお願いしたところ、
その都度申し込んでいただければ便宜を図りましょうということであった。
【出入港時】
船橋への出入りは厳重でその都度、 インターホーンで連絡してロックを内側から解除してもらって中に入った。
船橋設備は、 さすが国際航海に従事する客船である。
船橋には船長、 副船長、 2 等航海士、 操舵手の
4 人が配置についていたが、 オーダー、 アンサーともに的確で申し分なかった。
それも、 飛鳥で働く人たちの多くは外国人で共通語の英語を使用していたからであろうと思う。
命令はそのまま命令として伝わり、 アンサーは
「サー」 をつけてそのまま返ってくるのである。
例えば、 英語では 「レッゴー・ヘッドライン」
とオーダーすれば、 「レッゴー・ヘッドライン・サー」
とアンサーされるといった具合である。 これが日本語
(内航船に多い) になると、 オーダーは 「ヘッドライン放して下さい」
となり、 アンサーは 「… (無言)」 か 「ヘッドライン放した」
となり、 変な敬語のオーダーとアンサーになる。
海運社会はグローバル化され国際化も進んでいる昨今、
内航フェリーの船社も船内用語の統一について一考しておく要があろう。
一方、 飛鳥船長の操船は実に見事であった。
そのことを口にすると即座に 「内航フェリーの船長にはかないませんよ!」
という返事が返ってきた。
【航海中】
航海中の飛鳥の船橋をゆっくりと見学した。
航海士と操舵手の 2 名は制服を着用し厳正な態度で当直業務に従事しており、
安全運航を標榜ひょうぼうする旅客船らしい緊張感が漂っていた。
ぐるりと見回すと船橋後部に神棚かみだなが祀られているのを見てホッとした。
ともあれ、 航海当直を見学した結果を、 内航フェリーの参考になればと思い次に列記した。
@ 電子海図をセットした海図机はよく整頓され、
海図への船位は30分ごとにキチント記入されていたが、
記入方法の規約は練習船と同じであった。
A 船橋には 「禁煙」 の標示があった。 (写真右)
B 船橋のウイング扉の片側は常に開けられていた。
C パイロットチェアーはあったが、 当直者が座っているのを見たことはなかった。
D 双眼鏡は船長以下すべて航海士個人用となっていた。
E 操舵手は船橋設備の航海計器の取り扱いに習熟している。
F 行き会い船のあるとき、 航海士はよく相手船のコンパス・ベアリングを測定していた。
G 霧中信号、 操船信号等は確実に行われていた。
H 防火・防水・総端艇等の訓練は停泊中に規定どおり厳正に実施していた。
【甲板員】
ほとんどがフィリピン人であったが、 よく訓練されているのには驚いた。
近い将来、 内航フェリーにも安全確保のための手段として訓練された―あるいは日本で訓練した―外国人船員を導入する時機が来るかも知れない、
むしろ、 その選択が安全運航に役立つかも知れない…と、
フト思った。
6 あとがき
今回の飛鳥乗船は突然のことであったが、
一般の人たちに自然・海・船を知ってもらう絶好の機会と捉え、
それに沿った内容を計画・実行に移し、 ほぼ満足すべき結果を得たと思っている。
また、 日本を代表するクルーズ客船でも安全運航の基本は忠実に守られ実行されていることをお知らせしてこの稿を終える。
なお、 飛鳥は本年度の航海終了後、 来春には後継船
「飛鳥U (旧名クリスタル・ハーモニー、 48,600総トン)」
と交代する。
次回は乗船中に経験した 「自由の女神像の視線の行方」、
「グリーン・フラッシュ」、 「海鳥」 などについて報告する予定である。
(編集部注)
本稿は、 (社) 日本旅客船協会の会報 「旅客船」
No.233及びNo.234に掲載されたものを、 同協会ならびに筆者の御好意により、
内容の一部加筆訂正の上転載させていただいたものである。
全 4 回で本号は 2 回目となります。
|