南 極 を め ざ し た 日 本 人


           ……石川県・羽咋市が生んだ野村直吉船長の卓越した航海術……
                                愛 知 県 半 田 市  大 賀  清 史

1. はじめに
 本年平成18 (2006) 年は、 「宗谷」 が南極へ向けて芝浦を船出してからちょうど50年目に当たります。 思えば、 その頃はまだ敗戦からの復旧が完全ではなく、 国民全体が日本の復活と再建とに向けて努力している真最中の時代でもありました。 そんな中 「宗谷」 は国民の熱い思いを背負って東京芝浦を後にしたのです。 しかし、 南極に向けての出港はこの 「宗谷」 が初めてではありませんでした。
 ところで明治の末に、 白瀬 矗 (のぶ) 中尉の南極行きを支えた一人の船長がおりました。 その船長は、 己 (おのれ) の操船技術に大いなる誇りと自信を持っておりました。

2. 南極観測の今・むかし
 昭和58 (1983) 年以降、 南極観測隊員等の輸送は、 海上自衛隊の 「しらせ」 によって行われています。 それ以前は、 今、 名古屋港に繋留保存されている 「ふじ」 でした。 「ふじ」 の就航は昭和40 (1965) 年です。 我が国が、 国際社会の一員として南極観測を開始したのは、 戦後の落ち着きをようやく見せ始めた昭和31 (1956) 年です。
 その年第1次観測隊員を送り届けたのは、 海上保安庁の 「宗谷」 (船長は、 故・松本満次氏) でした。 同船長と同期で広島商船高専の元校長であり、 大島商船高専同窓会顧問でもある“阿土拓司”氏は、 故・松本満次船長は 「彼は常日頃は余り目立たない性格でしたが、 難に臨んで強い信念を発揮することが出来て、 真に海の勇者であったと思います」 と言っておられます。 「宗谷」 は昭和37 (1962) 年まで任務を遂行し、 現在は、 東京“海の科学館”に保存・展示されています。
 ところでこの 「宗谷」 は、 もともとはソビエト向けに建造された耐氷貨物船でした。 しかし、 建造途中で契約が破棄されたため、 民間会社の辰南汽船が引き取り、 「地領丸」 として就航することになります。 同船の船長を務めたことのある故・松林楠雄氏によりますと、 「操船上の性能は悪くはなかった」 ということです。 昭和15 (1940) 年に 「宗谷」 と改名され、 海軍の艦艇として従軍します。 幸運にも大戦を生き延び、 復員任務についた後、 老朽化が進んだこともあり解体処分に決まりました。 しかしこの頃、 海上保安庁の灯台補給船が不足していたという事情から、 海上保安庁に移管されることになりました。 「宗谷」 の持つ耐氷構造が注目され、 南極観測用に転用されることになるのです。

3. 白瀬 矗 (のぶ) の一生  (年表形式にまとめます)
・文久元 (1861) 年 今の秋田県金浦にて誕生。
・明治2 (1869) 年 寺子屋に入門 (師匠は、 蘭学者佐々木節斎)。 11歳の時、 探検話を聞く。
・明治12 (1879) 年 浅草本願寺の学校へ入学。 その後、 陸軍へ。
・明治23 (1890) 年 児玉源太郎に樺太・千島の探検をすすめられる。
・明治26 (1893) 年 千島列島最北端の占守島に上陸。 (二度の越冬)
・明治38 (1905) 年 中尉に任官。 (日露戦争中は、 大陸を転戦)
・明治43 (1910) 年 1月、 帝国議会に 「南極探検に関する経費請願」 を提出。
・明治43 (1910) 年 7月、 探検船員募集広告を掲載。
・明治43 (1910) 年 8月、 隊員27名が決定。
・明治43 (1910) 年 10月、 199トンの 「第2報效丸」 を25,000円で入手。
・明治43 (1910) 年11月、 18馬力の補助機関を装備し 「開南丸」 と改名。
・明治43 (1910) 年11月29日、 品川を出帆。
・明治44 (1911) 年 2月11日、 ウエリントンを出帆。 氷に阻まれシドニーに引き返す。
・明治44 (1911) 年11月19日、 南極に向けてシドニーを出帆。 (探検活動は割愛)
・明治45 (1912) 年 2月3日、 すべてが終了し帰国の途へ。
・明治45 (1912) 年 4月15日、 タイタニック、 氷山接触し沈没。
・明治45 (1912) 年 5月16日、 白瀬隊長ら日本郵船の定期貨客船 「日光丸」 で横浜へ入港。
・明治45 (1912) 年 6月20日、 「開南丸」 東京・芝浦へ入港。
・昭和2 (1927) 年 6月21日、 アムンゼンと会見。
・昭和10 (1935) 年 借金を自力で返済。
・昭和21 (1946) 年 9月4日 他界 (享年85歳) 於、 愛知県豊田市。
 晩年に詠んだ狂歌:「家もなく 金もなき身の我が輩は 食って死ぬのが 満足と思う」
 辞世の歌:「我れ無くも 必ず捜せ 南極の 地中の宝 世にいだすまで」
 墓所は、 西林寺 (吉良吉田町)。 分骨されて生誕の地 「浄蓮寺」 にも。

4. 白瀬 矗の隊員募集と資金計画
 寺子屋師匠 「佐々木節斎」 の薫陶を受けた白瀬少年は、 師の教えとして、 次ぎの五つの戒めを生涯守ったようです。
@酒は飲まない Aたばこは吸わない 
B茶を飲まない C湯を飲まない 
D寒くても火に当たらない 
 アメリカの探検家“ピアリー”が、 明治42 (1909) 年に北極点に到達したという報に接っしたため、 探検目標を南極にかえました。 政府への強い働きかけにもかかわらず、 金銭的援助が全くなされませんでした。 しかし、 明治43 (1910) 年5月、 東京毎日新聞と萬朝報の二社が探検計画と基金支援の記事を掲載した結果、 大きな反響がありました。 7月3日と14日の新聞に募集広告が載ります。 「・梅干しのたねをかみ砕くことのできる丈夫な歯を持った者。 ・身体強健にして係累なき者。 ・堅忍不抜の精神を有する者。 ・多量の飲酒をしない者」 が、 その応募条件でした。 全国から三百人を超す応募者があり、 白瀬は一人ひとりと面談をして隊員を決定しました。 (因みに、 甲種船長 「野村直吉」 は二人目の応募者です。) さらに国民への訴えと資金作りをかねて、 同年7月5日、 「南極探検計画発表演説会」 を催します。 「演説会」 終了後には、 大隈重信を会長とする 「南極探検後援会」 が発足します。 この時点での計画は、 演説会の1か月後に芝浦出航。 その間に隊員の募集を行い、 船内備品や各種用具を準備し、 資金を調達しようとする気ぜわしいものでした。 その背景には、 英国のスコット隊が既に南極に向かって出航したというニュースが伝わっており、 かなり強い焦りがあったものと思われます。 1ヶ月ほどで約4万円の募金が集まりました。 政府の冷淡さとは反対に国民は熱狂しました。 この段階ではまだ肝心の“探検船”が入手できておりません。 準備不足から出航の延期、 8月に関東地方での集中豪雨、 出航の再延期が国民の探検への情熱・支援にブレ ーキをかけ始めます。 新聞社も募金を中止したため、 世論も急速に冷めてしまったようです。 (計画に杜撰な点が多かったことも否定出来ません。)
 一方、 食料の調達と隊員の募集も同時に行われました。 食料は、 米・麦・麦粉・大豆・小豆・味噌・醤油・砂糖・佃煮・たくあん、 等の2年分でした。
 さて、 選ばれた全隊員の尽力が探検活動を支えたことは言うまでもありませんが、 特に、 次にあげる三人は、 別格だと考えます。

5. アイヌの人“花守 信吉”と“山辺 安之助”
 樺太生まれのこの二人が、 毛皮の防寒服・橇 (そり) ・30頭の樺太犬・その餌、 を無償で提供しました。 樺太犬の餌として、 ニシンや干しマスも準備してくれました。 極寒の地に対する備えは、 この両人の知恵・助言です。 探検活動には、 村をあげての協力がありました。 この二人の力なくして、 万全の準備はありえませんでした。 二人は、 極点を目指す“突進隊”五人の中でそれぞれ橇係りとして大活躍します。“山辺 安之助”は身長が180cm以上ある大男だったようです。 この両人は、 数頭の犬を南極に放置してきたという咎で故郷に戻っても歓迎されることはありませんでした。 しかしこの置き去りは決して自分の意思ではなく、 天候の激変という中での最終決断であったようです。

6.“野村 直吉”
 白瀬隊を、 無事南極にまで送り届けた 「開南丸」 の船長です。 彼は、 慶応3 (1867) 年9月に生まれました。 出生地は、 今の石川県羽咋市です。 若い頃は、 能登国の回船問屋 「西村屋忠兵衛」 の持つ北前船に乗っており、 氷の中の航海には慣れていたようです。 明治42 (1909) 年5月26日、 甲種船長免状を取得します。 これをとるため、 長崎の高等海員養成所に通っていますから、 かなりの努力家ですし、 猛勉強もしたはずです。 残されたノートを見るとそれがよく分かります。 日露戦争時は御用船の船長でした。 明治43 (1910) 年6月、 「萬朝新報」 で隊員募集を知り応募しました。 この時は 「国際汽船」 の船長職にありました。 南極探検を、 「日本の海事思想の幾分かを世界に示すべき絶好の機会」 ととらえ、 「給与は望まず」 と白瀬に言って応募しています。 世論を喚起するための演説会の演壇にも立ったようで 「船長として船と隊員の命は絶対に守る」 と明言しています。 但し、 南半球はまだ未知の海域・未知の航海でした。
 南極へ向けて、 明治43 (1910) 年11月28日、 東京・芝浦を出帆しました。 送別会で後援会長の“大隈重信”は、 「百発の空砲は一発の実弾にしかず」 と言って、 探検隊員を激励しました。 しかし、 長途の航海では、 予想もつかないことが起こりました。 赤道海域という炎天下を航海することにより、 積んでいた2年分の食料がおおかた腐り、 樺太犬もほぼ死に至り、 シドニー入港時には1頭だけになったのです。 犬の死因は、 寄生虫と燃えるが如き暑さでした。
 野村船長は人間関係に苦慮されたようです。 船内では、 船長の権限は絶対ですから、 海上隊員 (船員) と陸上隊員 (非船員) との間の確執もかなりあました。
 明治44 (1911) 年2月9日、 ウエリントンに入港します。 11日出帆。 暴風圏をなんとか突破し、 3月6日、 ロス海域までいったものの厚い氷群に阻まれ、 非力な 「開南丸」 ではこれ以上の前進は無理とのことから、 撤退を決断せざるを得ませんでした。 5月1日、 シドニーに入港します。“野村船長”は、 後援会への報告と今後の対策のために一旦帰国します。 当時、 日豪間には、 日本郵船(株)の定期貨客船 「日光丸」 が就航していました。 この定期船を使っての往復でした。 同船内では、“八木船長”の世話になりました。 一時帰国中、 何度か演説会に参加し広く資金協力等を求めます。 10月18日、 食料と測量用具を持って同船でシドニーに戻ります。 やや遅れて、 「熊野丸」 で29頭の樺太犬も着きました。
 11月19日出帆。 南極への再挑戦です。 この時白瀬隊は、 大隈後援会長の助言もあり、 主目標を南極点踏破から学術調査へと変えていました。 翌年の1月16日、 「開南丸」 は、 ロス海に着きました。
 隊長ら五人の突進隊は、 樺太犬28頭の引く2台の犬橇に分乗して南極点に向かいます。 残った船長や他の乗組員は、 気象観測などの学術調査を精力的に行いました。 野村船長自身も色々なことに感動し、 時には漢詩を詠んだり、 多くの絵 (スケッチ) を描いています。
 人的被害を出すことなく南極を引き上げた一行は、 ウエリントン寄港後、 6月20日に東京・芝浦に戻ってきました。 1年7ヶ月に及ぶ長途の航海でした。 その2ヶ月前、 超がつくほど豪華な客船 「タイタニック」 が氷山と接触し、 その麗姿を北大西洋の底に沈めます。
 白瀬隊長らは、 定期船日光丸で一足先に帰国していました。
 その後野村船長は、 相沢汽船にて遠洋航路に従事しますが病気療養のため入院し、 会社の配慮から陸上勤務に就きました。 54歳の時、 海運会社を退職。 その後、 いくつかの仕事をしたようですがうまくゆかず、 昭和8 (1933) 年10月17日に他界します。 享年67歳でした。 日本国内での知名度は残念ながら殆どありませんが、 外国人の有識者の眼にはこう映っていました。
 自らも南極に上陸したことのあるシドニー大学の“デビット”教授は、
「小さな開南丸が、 貧弱な装備で南極に近づいた航海術の高さに感心する。」
 ノルウエーの“イワール・ハレム”という極地探検家は、 イギリスの地理学協会誌にこう寄稿しています。
「小船の開南丸で日本と南極間を往復、 生還した航海技術は、 野村直吉の名が大航海者らの中に記憶されるべきことを証するものである。」
 また、 ロス海で出会ったアムンゼン隊の 「フラム」 号の乗組員は、 「開南丸」 を見て次のように言っています。
「こんな船では、 我々はここまでどころか、 途中までも到底来ることはできない。」
 吠える40度、 狂う50度、 叫ぶ60度と表現され、 南極に近づくにつれて凄まじく荒れるこの海域は、 最新の装備を持った現代の船舶でも、 安全航行は至難の業です。 航海計器がなきに等しいお粗末限りない 「開南丸」 で、 南極往復をなし得た“野村直吉”船長の偉大なる海技を、 何としても後世に伝え、 その栄誉を顕彰してゆかねばなりません。 南極海という魔の海域を、 また、 海が絶対に凪ぐことのないこの海域を、 無事に往復した野村直吉船長の航海術が、 いかに卓越していたかがお解りのはずです。 残された航海記録を見ますと、 各ページにびっしりと天測に基づく計算式が書かれており、 ヌーンポジション等が記されています。 参考までに、 明治45 (1912) 年1 月1日の部分を添付します。
 
白瀬 矗は、 秋田県・金浦で生まれです。 しかし、 祖先は白瀬村 (今の羽咋市) の勝久寺に縁ある人らしく、 日本海沿いに布教の途中、 何かの理由で金浦に定住することになった人のようです。 今でこそ日本海側は裏日本と呼ばれ、 暗い寂しい感がなきにしもあらずですが、 時代が遡れば遡るほど日本海は海上交通の要でもありました。 野村船長と白瀬隊長は、 目には見えない深い縁 (えにし) で結ばれていたのかも知れません。

7. 「開南丸」 とは
 南極観測船 「しらせ」 「ふじ」 「宗谷」 は、 よく知られています。 しかし、 3本マストの木造帆船 「開南丸」 を知る人は多くありません。 ここに 「開南丸」 のあらましを記します。
 明治43 (1910) 年、 大湊 (三重) で一艘の木造漁船が進水しました。 船名は 「第2報效丸」 と名付けられました。 この船でなければならないという強い理由はなかったと思いますが、 縁あって南極観測用に後援会が買い取ることになりました。 3本マストの木造帆船では南氷洋の航行は無理・無謀ということで、 中古の蒸気機関18馬力を装備しました。 そして、 船体に厚さ7.6cm、 幅15.2cmの角材を取り付け、 上から厚さ6mmの鉄板で補強しました。 改装された同船は、 東郷平八郎によって、 「開南丸」 と改名されました。 平水域しか航行できないようなこの船が、“野村直吉”船長の卓越した海技のもとに大活躍するのです。 使命を終えた 「開南丸」 は、 2万円で売却されました。
 因みに、 わが国の今までの南極観測船4隻の大きさを比較しておきます。 「開南丸」 の小ささがお解りだと思います。
「開南丸」  全長30m 最大船幅7.0m
 馬力18hp 204トン
「宗谷」   全長83m 最大船幅15.8m
 馬力4,800hp 4,135トン
「ふじ」   全長100m 最大船幅 22.0m
 馬力 11,900hp 7,760トン
「しらせ」  全長134m 最大船幅 28.0m
 馬力 30,000hp 11,600トン
*** 参考 ***
アムンゼン隊の 「フラム」 号 (402トン)
スコット隊の 「テラノバ」 号 (744トン)

8. 南極点踏破競争とその後
 南極点を目指していたのは、 白瀬隊だけではありませんでした。 ノルウエーのアムンゼン隊、 イギリスのスコット隊が、 ほぼ同時期に南極におりました。 明治44 (1911) 年12月14日、 アムンゼン隊が南極点踏破に成功します。 スコット隊は、 明治45 (1912) 年1月17日に到達しますが、 持ち込んだディーゼル機関・化学繊維の防寒服・馬が極寒で用をなさず全滅します。
 昭和59 (1984) 年、 我が国の南極観測隊が 「オゾンホール」 を発見しました。 地球環境の悪化が、 全く別の視点から表面化したのです。
 美しく、 かけがえのない地球を守ることは現代人の責務です。 そのためにも、 先人の業績を偲びつつ、 海技・海上交通・海上輸送の重要性を訴えてゆかねばなりません。
 近頃、 色々な場面で 「規制緩和」 とか 「改革」 という言葉をよく耳にします。 すべてのことを点検して万全を期することは結構なことです。 但し、 官民ともに思い違いをしている点がいくつかあります。 というのも、 採算性・経済性ばかりが優先され肝心なことが欠落していることも事実です。
 その一つが“海技・海運”の問題です。
 江戸時代には 「大船の建造禁止」 という幕府の厳しい規制があったにもかかわらず、 北前船など各廻船の船頭の航海術は確かでした。 天下の台所大坂を支え、 天下の消費地江戸を支えたのもこれすべて船便です。
 文化8 (1811) 年 7 月、 国後島で南部藩の守備隊に身柄を拘束されたロシア艦隊のゴロ ーニン海軍中将は、 日本の船乗りを観察して次のように言っております。
「われわれは日本水夫の敏捷さをたびたび目撃した。 彼らが海岸ぞひの猛吹雪を冒し、 また潮の干満が残りなく猛威を振ふ河から海への落ち口の世にも物凄い潮流を冒して、 あの大きな船を軽快巧妙に操っているのは驚くべきものがある。 かういふ海員にはどんな期待でも掛けることが出来る。」 (日本幽因記)
 また、 安政7 (1860) 年に太平洋横断をした 「咸臨丸」 の水夫の多くは、 瀬戸内にある塩飽諸島の船乗りでした。 「咸臨丸」 の復航の立役者は中浜万次郎と小野友五郎です。 この両人は天測ができました。 往航時に事実上 「咸臨丸」 を指揮したブルック船長は、 “有能なる航海士”と二人を讃えております。 帰途のこの航海こそ、 日本人だけの手によってなされた本当の快挙です。
 遣隋使以前の昔から、 多くの文物は船便によってもたらされました。 それは、 航空機が高度に発達した現在でも、 海上輸送の重要性はいささかも変わるものではありません。 島国で地下資源に乏しく、 その上加工貿易型である我が国は、 海上輸送なくしては、 円滑な国民生活は成り立たないのです。

9. おわりに
 昨今、 日本船籍の外航船舶が非常に少なくなりました。 国土交通省海事局の 「海事レポート」 によれば、 平成16年7月現在で、 日の丸を掲げる外航船は99隻です。
 また、 一昨年の7月より施行された改正 SOLAS 条約は、 岸壁を市民生活から隔離してしまいました。 と言いますのも、 外航船の接岸する岸壁 (埠頭) はテロ防止の名目からフェンスで仕切られ船舶の側に近づけなくな ったのです。 警備員が常駐し、 人の出入りを遮っております。
 わが国から若い航海士が減り始めてもうかなりの年が経ちます。 その反面、 発展途上国や旧東欧系の船員が激増してきました。 加えて、 日本船籍外航船に日本人船長・機関長を乗せる必要もなくなりそうです。 こんな状況が続く限り、 航海技術・操船技術 (海技) が次の世代に伝わりません。 我が国にとって日本人船員の持つ 「海技」 は、 国民の生活安全保障にかかわってくる重大問題なのです。
 我々の先祖が営々と築いてきた海技が、 今まさに我が国から消え失せようとしています。
 さて我が国の年間貿易量は、 9億トンを越します。 この量は、 全世界の物流の6分の1に相当します。 その99.8%を海上輸送が担い、 これを金額に換算すると80%以上になるということを世間の方は、 残念ながら殆どご存知ありません。
 1月29日は“南極の日”です。 それは、 昭和32 (1957) 年第1次南極観測隊により 「昭和基地」 が置かれたことに因みます。 7月には“海の日”もあります。 また例年11月14日は、 南極観測船が出港する日です。 これらの日を通じて、
“わが国は海運立国である”ということ。
“海上輸送が日本国民の生活を支えている”ということ。
“海上輸送が絶たれたら平和な生活が成り立たない”ということ。
“我が国の存立は世界平和が絶対の条件”であること。
 我が国から船員さんを絶滅させてはなりません。
 このことを広く世間に知らしめることこそ私自身の使命と考えて日々の教壇生活を送っております。
合 掌

*本稿は、 愛知県東海市および石川県羽咋市で講演した内容を若干手直ししたものです。
*開南丸の航跡の略図と明治45 (1912) 年1月1日付の航海記録等を添付します。

『筆者は愛知県の高校で教師をされております。 筆者の亡くなられた父上 (大賀清春氏) は明治40年生まれ、 大島商船学校航海科第26期生 (昭和3年卒)、 能登黒島 「七野伝左衛門」 家所有の北前船 「嘉宝丸」 (160トン) で帆船実習、 同船 「佐藤留作」 船長に操船術を伝授される。 昭和3年辰馬汽船入社 「天長丸」 に乗船された』