機 帆 船 の 太 平 洋 戦 争

                  ― 機帆船とはどんなお船? ―
                                              全船協 名誉会員  
                                                水沼 清 
 

天皇皇后両陛下のご臨席を賜り  戦没・殉職船員遺族の集い
 平成17年7月4日遺族170人、 同関係者110人、 海事関係者70人、 合計350人が参集。 海運ビル二階の大広間も狭く感じる。
 報道陣多数放列を敷く中、 定刻11時に殉職船員顕彰会の秦常務理事、 開会を宣す。 相浦同会会長挨拶、 来賓代表北側国土交通大臣挨拶、 遺族代表挨拶と続き、 2・3分置いて、 11時17分に両陛下のご到着を告げられ会長他7名が出迎えの位置に立つ。 定刻の11時20分に両陛下は参列者に丁寧に会釈されながら静々と入場された。 戦没船員遺族会会長の献杯の発声で杯を挙げ、 拍手が続く中、 天皇陛下は正面に向かって左側、 皇后陛下は右側に歩み寄られ、 遺族一人ひとりとの懇談に移った。
 これは初めて経験する恐れ多くも畏くも大変な会話の場である。 右側7・8人の12グループ・左側7人の12グループに分かれ、 取り決められた40分間で出来るだけ平均に両陛下とお話しを交わそうと言う趣旨である。 会場に入ってから非常に短時間の説明とグループ分けで、 大凡のグループ編成も終わらないうちにAグループから懇親が始まったのである。
 左右各々AからLまでの12グループの中で、 私は右グループGの7番目である。
 一寸と計算してみた。 各グループの持ち時間は、 両陛下の御入場と乾杯で4分程時間を取られたので36分しかない、 これを12で割ると3分 (一人の持ち時間22.5秒) になる。 此のとおり順調に進んだとしたら21分後、 すなわち11時45分から遅くても50分頃と見当をつけた。
 予想から2・3分程過ぎたところで、 皇后陛下の御面前に立った。

機帆船とはどんなお船?

私;おいで下さり有り難うございました。 父は昭和19年5月に、 木造の機帆船で南方に出陣しました。
皇后陛下;機帆船とはどんなお船ですか。
私;機付帆船とも言いまして、 機械と帆で走る船です。
皇后陛下;その時あなたは?
私;商船学校の一年生でした。
皇后陛下;その後どうされましたか。
私;卒業して船に乗りまして、 今も船の仕事を続けています。
皇后陛下;それはご苦労でした。
私;本日は有り難う御座いました。 こちらは家内です。
 二人最敬礼して引き下がり、 遺族の最後列に移る。
 緊張はしたが思ったより冷静にお話が出来たと思う。 全く予想していなかったご下問に適切なお答えが出来ず、 また時間は少し超過したように思う。 因に上記の会話を普通の早さで読んでみると、 約37〜8秒、 持ち時間は23秒、 従って15秒程のオーバーになる。 最後の組は時間が足りなかったのではないか一寸心配になった。
 皇后陛下から 『機帆船とはどんな船ですか』 とのご下問に接し、 充分なご説明が出来なかったが、 もう既に姿を消してしまった機帆船のことを23秒ぐらいで説明出来るものでもない。 がちょっと心残りでもある。
 そこで今までに機帆船 『金毘羅丸』 や 『河山丸奮戦記』 などとして発表した2・3の原稿を取りまとめ一部省略、 一部追記して、 『機帆船の太平洋戦争』 として取纏めてみることにする。

機帆船徴用の背景と全般的な戦況

 昭和12年7月に始まった支那事変から昭和16,7年頃までは、 主として陸軍が機帆船を徴用して揚子江やその他の水・海域の沿岸輸送の強化に使った事は、 あまり多くの人々には知られていない。 またその頃は勝ち戦であり船主と軍の契約に従い一定期間が過ぎれば、 徴用解除となって船も乗組員も無事帰還し、 町では凱旋将軍を迎えるようなお祝いをしていたものである。
 しかし河埜担機関長のお話しによると、 陸軍に徴用され揚子江で軍の輸送に従事していた徳宝丸の甲板長中河原今朝次郎さんは、 九江付近で敵の迫撃砲に当たって戦死されたと証言している。
 しかし昭和18年頃からの徴用は異常かつ強制的になってきた。

緒戦時の快進撃から戦勢逆転

 昭和16年12月8日、 真珠湾の奇襲成功からマレー半島上陸、 英国戦艦 『プリンス・オブ・ウェールス』 ならびに巡洋艦 『レパルス』 の撃沈、 マニラ占領、 シンガポール占領と勇壮な軍艦マーチの繰り返しで、 最初の6ヵ月は帝国陸海軍の向かうところ敵なし、 破竹の進撃であった。
 しかし開戦から半年が経つと態勢を整えたアメリカを初めとする連合軍は攻勢に転じ、 日本軍は守勢に立たされつつあった。
 昭和17年6月初旬に、 乾坤一擲、 戦史上例のない大渡洋作戦が北はアリユーシャン、 南はミッドウエーの両面に向けて展開された。
 北方作戦はアッツ島とキスカ島を占領して一応その目的は達成したが、“勇壮な軍艦マーチ”とは裏腹にミッドウヱー海戦は完敗で、 帝国海軍は虎の子の正式空母4隻のほかに重巡2隻、 飛行機322機と3,000名以上の戦死者をだして敗退し、 太平洋全域の勢は一挙に逆転させられてしまった。
 制空・海権を敵に取られた後の輸送船の喪失は目に見えて多くなってきた。
 さらに昭和17年8月から翌年1月まで6ヵ月にわったってガタルカナル島奪回のためにその周辺海域で繰り返された6回の海戦、 7回にわたる強行輸送作戦の実施で我が方は艦艇25隻、 約135,000トン、 輸送船に至っては実に145隻、 656,000トンを喪失してしまった。 しかし結局ガタルカナルの奪回は成らず昭和18年2月には 『転進』 と称して撤退する事になる。
 余談になるがこの海域には日米の艦船が大量に沈んでいるので、 現在でもその海上を通過する船舶はマグネットコンパスが狂うという。 (此れはある先輩から直接聞いた話で、 彼は小型磁気羅針儀を持ちこんでクルーズ船に乗り、 船長の協力を得て、 実験した緒果磁気コンパスが狂った事を確認したと言う)

無茶苦茶な機帆船の徴用

 江戸時代からの船所と言われていた宮崎県の 『美々津』 と 『幸脇』 には戦前・船中迄100トン前後の機帆船が沢山あったが、 戦争末期の昭和19年には全部徴用され、 乗組員もそのまま陸軍軍属として南の海へ出陣した。 その中には高等小学校を卒業したばかりの14歳の少年から63歳の高齢者まで船と共に征き、 そして1隻の船も、 一人の船員も還って来なかった。
 機帆船乗りの生き残り証人の一人は、 わが家の 『第2金毘羅丸』 の機関長をしていた三谷輝男さんで、 彼は兵隊検査で第一乙種合格しているので、 徴兵が優先し機関長としての徴用は免除され、 その後戦時標準型機帆船監督をしながら召集令状が来ないままに終戦になった、 数少ない機帆船乗りの生き証人である。
 またもう一人は佐賀関の会杜の船 (美々津では一般に会杜の船と云っていたが、 正式には、 日本金属工業(株)佐賀関精錬所所属) に機関長で乗っていた河埜担さんが九死に一生を得て帰って来られた。
 今から書く“機帆船の太平洋戦争は”このお二人方と、 金毘羅丸で出陣する父を日本最後の山川港に見送った後、 鹿児島商船学校に面会に来た母からの聞き書きである。
 河埜さんは現役兵とし満州に征き、 その後支那事変で中支方面に従軍し、 兵長で帰還してすぐ佐賀関の会杜の船 『河山丸』 に乗船して暁部隊でマニラに行かれた。 河埜さんの克明に書かれた航海記録と83歳を越えても衰えない確かな記憶力での語りを基に纏めた。 河埜さんは機帆船で栄えた美々津の歴史を今も 『語り部』 として小・中学生に講義しておられる。

平和なよき時代の機帆船   “第2金毘羅丸の”航跡

 第2金毘羅丸は帆船“金毘羅丸”の次に幸脇の友石造船所で昭和5年に建造された85トンの焼玉2機筒60馬力の木造機付帆船で船主水沼勝太郎、 船長水沼勝巳、 乗組員5名で運航していた。
 この頃は何処の船主もそうであったように自主運航で、 細島港の回送問屋 『伊藤忠治商店』 が集荷した木材、 木炭ときに農産物等を積載して大阪に行き、 大阪ではたしか 『丹羽清吉商店』 だったと思う。 が集荷した雑貨を満載して細島に帰る。 いわゆる上方通いの月2航海か3航海ぐらいする、 割合にのんびりした古き良き時代の海運業者であった。
 ほかに九州木材の杜長藤本弥一さんと細島の繁栄丸の船主今泉仲音さん、 それに水沼勝太郎の三者の共有船として、 愛媛県の木江造船所で昭和12年の初め頃に建造された“金栄丸”があった。 この船は、 120総トンの船に3機筒焼玉120馬力を備えた優秀船で、 当時俗に云う“トン馬力の船”として有名であった。
 細島と大阪の間を殆どの船は大体45時間かかるところを、 僅か37時間で走破した記録がある。 外観は純白で、 操舵室や船員室入口などには格好よく木製ニス塗りのドアーが着けられており、 姿形の良い船として有名であった。
 支那事変が始まるとすぐに陸軍に徴用されて、 揚子江に行って軍の物資輸送に尽力し1年程で徴用解除になり帰って来て元の細島/大阪の航路に復帰した。 ところがこの“金栄丸”は細島で材木を満載して大阪に向かう途中、 木ノ江の手前、 岡村の灯台付近で荷崩れを起こして沈没した。 幸い浅い所だったので引き上げて、 木ノ江の造船所で1ヵ月半ほどかけて修繕し、 細島/大阪の航路に復帰した。 しかしその後余り稼働しないうちに、 今度は細島港入り口で座礁大破した。 船主三者は種々協議されたようであるが、 結局引き上げられることもなく、 全損破棄として処分された。
 当時美々津川の河口に浮かぶ十数隻の機帆船の中でもひときわ優雅で美しい姿の金榮丸だったが、 美人薄命と云おうか、 短命に終わっている。

日産近海汽船の定期傭船から   船舶運営会そして陸軍暁部隊へ

 昭和16年頃から統制が段々厳しくなってきて、 17年の中頃には個人船主には燃料油の配給も来なくなり、 止む無く日産近海汽船に定期傭船に出していた。 更に昭和18年6月には、 機帆船に至るまで国家の一元管理となり、 船舶運営会所属、 運航実務管理日産近海汽船(株)となって、 主として朝鮮と内地各港間の航海に従事し、 細島に帰ることも少なくなっていた。
 昭和19年4月初め頃の大阪揚げ切り後、 運営会から 『神戸の弁天浜に艫着けにして待機し別命を待て』 と云う指示に従って弁天浜に3隻目ぐらいに着岸した。 翌日から、 3隻、 5隻、 10隻と100トン前後の機帆船が続々と入港して来て、 艫着けの3段ぐらいでひしめきあった。 その数ざっと3,40隻ぐらいになった。
 集まって来た僚船の話によると、 瀬戸内海を航海中に陸軍の船に急に停船を命じられてそのまま徴用になったとか、 荷役中に兵隊が来て此処に行けと云われて来たとか。 どうも陸軍は手当たり次第に船を集めているようだ、 此れは大変なことになるぞと云う予感はしていた。
 ある日陸軍の下士官二人が乗船して来て、 本船を陸軍暁部隊に徴用するために検船する、 と云って簡単に船を見た後、 全員を船橋に集めて 『何か具合の悪い所があるか』 と聞くので船長からは 『マストの上部が腐食しているので、 此のままでは荷役が出来ない、 取り替えを要する』 と申告し、 また機関長からは 『本船の焼玉機関は古いので南方の暖かい海水の冷却では亀裂が入る恐れがある』 と強く主張したが、 その下士官は、 『今まで此の状態で運航して来たのであるから問題なし』 と簡単に自分で結論をだし、 『船・乗組員ともに合格、 明日朝8時に船長以下全員暁部隊に出頭せよ』 と一方的に命令して引き上げた。
 その間僅か30分ぐらい、 今考えると随分ひどい話ではあるが、 その当時の陸軍の権勢は強く、 なにを言っても通らない時代であった。
 翌日船長は必要書類を持ち、 5人揃って暁部隊に出頭して正式に陸軍徴用船として、 又徴用船員としての手続きをしていた。 ところがその事務手続き中の担当の女性が 『機関長の三谷輝男さん貴方は徴兵検査に合格しているので、 徴兵の方が優先します。 徴用は出来ません』 と言う。 担当の下士官は船長に機関長を適任者と交替させるよう命じ、 各々軍服と特配の米、 陸軍のマークのはいった 『ほまれ』 という巻き煙草、 それに貴重な甘味料 『金平糖』 をもらって喜々として船に帰った。

機関長三谷輝男さんは徴兵優先で故郷へ、
           甲板長村井音蔵さんは勝巳さんと一緒に行く


 船長以下5人車座になって協議した。 結論はグループの今泉さんの所有船 『繁榮丸』 は徴用検査の緒果、 船・船員ともに合格しているが、 当面国内航路らしい、 本船は南方に行くようだから、 此の際船主の今泉さんに頼んで、 繁栄丸に乗っている美々津出身の機関長牧野政敏さんに本船に来てもらう事として、 三谷輝男機関長は雇止下船して帰ることになった。
 通称 『オトヤン』 と云われて金毘羅丸の主のように親しまれ、 また本船の生き字引とまで云われていた村井音蔵さんはその時62歳を過ぎていた。 60歳以上の人は本人が申告すれば徴用を免除される事になっていた。 水沼船長は船主船長の立場から 『オトヤン貴方はもう62歳を過ぎているのだから申請して徴用免除にしてもらい下船してここから帰られたら』 と云うと村井音蔵さんは 『いや勝巳さんが行くとじゃから、 俺も一緒に行く、 御国のためじゃしな』 と応えて肯んじなかったと云う。 そんな時代であった。
 金毘羅丸には美々津町の人で、 この年の3月に高等小学校2年を卒業してすぐ乗ってきた他人さんの一人息子橋口捨一君14歳も乗り組んでいた。
 その頃誰もが言葉に出さないが征くと云えば南方であり、 そしてそのことは 『生きて帰れないであろう事』 そしてそれは 『死』 を意味していた。 しかし不思議と誰もがその事を口に出したり、 悲壮感と云うようなものはなかった。 そんな時代であった。
 三谷輝男も軽く 『じゃ、 何処に行っても身体だけは大事にしてな』 くらいの挨拶で、 眼と目で別れを告げ美々津に帰って行った。
 そしてほどなく後任の機関長牧野政敏さんが繁栄丸から転船して来た。

陸軍暁部隊の本拠宇品港に集結   そして日本最後の港山川港へ

 昭和19年4月神戸を出港して宇品港に向かった。 宇品では船体・機関の整備をし、 更に操舵室後方に高射機関銑が据え付けられ、 暁部隊の船舶砲兵3名が乗船して来た。 船倉には軍需物資が満載され、 船団を組んで最後の集結地鹿児島の南端山川港に向かって出港して行った。

鹿児島商船学校生徒寮にて

  『第18分隊機関科第1学年水沼生徒当直教官室に来れ』 生徒寮での自習時間開始の直前に伝令の研ぎ澄ました声である。 山本分隊長が 『水沼生徒何かあったのか』 私 『いいえ何か判りまっせん』 分隊長 『よし、 すぐ当直教官室に行け、 急げ』 18分隊室を出て廊下を静かに走った。 『当直教官、 水沼生徒参りました。 はいります』 当直教官は仮屋中尉であった。 『面会室にお母さんと弟さんが来ている。 すぐ行け』
 突然のことで何だか全く判らない。 何だろう?何かあったのだろうか?走りながら考えた。 面会室の前に母と弟の久が立っていた。
 守衛所近くでは教官や上級生の目が光っているので、 教えられたとおり母と弟二人に向かって挙手の礼をした。 母も久も驚いたようだし、 こちらも一寸照れくさかった。 面会室に入ると誰もいない。 ほっとして 『一体どうしたの』 と母に聞くと、 母が一気に話し始めた。
  『一昨日父から電報が来て、 山川港に行ってきた。 第2金毘羅丸が陸軍の徴用になり、 暁部隊のご御用船として昨日船団を組んで山川港を出港して南方に向かった。 船を見送ってその帰りに此の事を話そうと思って立ち寄った』 とのこと。
 なんと気の利かないことよ、 と思い、 『なぜ山川に行く前に連絡してくれなかったのか、 一緒に行けたのに』 と云って責めてみたが、 『何しろ急なことで、 時間がなく、 取る物もとりあえず、 大きくなってからずっと会っていない久だけを連れて山川に急いだ。』 とのこと。 ま此の時節柄致し方ないだろう。 父も母との最後のお別れをし、 漸く4歳になったばかりの久の元気な姿を見て、 安心して出港したのだろう、 一目会えただけで、 それで良いではないかと思いなおし、 『それは良かった、 自分は学校と寮生活にも慣れて、 元気でやっているから』 と云って許された僅か15分ほどの面会を終えた。

制空、 制海権のない海を鈍足の機帆船で

 山川港を出港した金毘羅丸船団は海防艦一隻にキヤッチャーボートに野砲を装備した特設海防艦数隻に守られて、 制空権・制海権のない海を5ノットから6ノットの鈍足で、 奄美大島/沖縄/台湾/の港、 港に寄港しながら、 敵の襲撃から逃れ逃れて、 やっとのことでマニラに到着したのであろう。 航海は20日前後はかかったであろう。
 それは昭和19年6月ごろ、 比島決戦の前哨戦となったレイテ島に敵軍団が上陸する直前の事であった。

☆☆同じ船団で山川港を出港し、 マニラに行く途中で撃沈されて帰って来た人の話によると、 又聞きではあるが、 沖縄沖までに機関故障や沈没で三分の一程の船が減り、 更に台湾の太平洋側の港と云うので、“華漣港”までに事故や航行不能になった船が相当あり、 マニラまでたどり着いた船は、 山川出港時の半分ぐらいではなかったか。 との事である。
☆☆金毘羅丸は幸い6月にはマニラにたどり着いたことは間違いない。 それは6月と11月頃に2回マニラの暁部隊気付けで父から軍事郵便 (はがき) が商船学校に検閲済みの仰々しい朱印が押して到着していた。
 以上が三谷輝男機関長の証言の聞き書きと、 山川港に父を見送った後、 鹿児島商船学校に面会に来た母との対話の概要を記述したものである。
 以下は河山丸機関長河埜担さんの証言の聞き書きで、 若干ダブる所もあるが、 河埜さんの証言は可成克明にメモされたものを基に聞き書きしたので、 経過・日付・時間等はこちらが正確である。 また金毘羅丸船団より少し後に日本を出発したものと思う。

河山丸指揮船としてマニラヘ

 昭和19年6月4日、 河山丸は船団編成 『暁.二九四〇部隊』 の指揮船を命ぜられ、 操舵室の後部甲板上に高射機関銃が据え付けられ、 指揮官と船舶砲兵が乗船して来た。
 6月15日未明暁部隊の本拠宇品港を出港し、 新港/佐賀関港に寄港しながら懐かしい故郷美々津の沖を通過して山川港に行き、 ここで機関の整備をしてさらに日本最後の寄港地“枕崎港”に6月25日に入港して最後の整備を行った。

 6月28目、 枕崎港を出港して敵の制空・制海権下の海を木造機帆船船団は5ノットの鈍速で南下する。 途中“名瀬港”/“徳之島”/“宮古島”/台湾の“花蓮港”(7月4日入港/7日出港) /比島リンガエン湾/等を経て昭和19年7月14日に枕崎港を出港してから16日間にわたる長い危険な航海にもかかわらず1隻の落伍、 沈没船もなく全船揃ってマニラ港に入港し、 指揮船としての責任を果たした。
 その頃のマニラ市内は街路樹の両脇には商業ビルや一流ホテルが立ち並び、 街並みは異国情緒豊かで、 しかも活気に満ちあふれていた。 港内では帝国海軍の艦艇や大型輸送船がひしめき、 その間を小艇が行き来していて我が海上軍団の戦力と士気は頼もしく思えた。
 また夜は 『灯火管制』 もなくビルの明かりや街灯も煌々と照り輝き、 本当にここが戦場なのかと疑いたくなるほどの明るさと落ち着きと静けさがあった。 それに毎夕眺めるマニラ湾のタ焼けは世界一の名に恥じない美しさで、 戦場に在りながら心休まる一時であった。
 しかしそれは正に“嵐の前の静けさ”であったのだ。
 小さな機帆船の船窓から見た河埜坦さんの証言を補強するため、 加藤卓雄氏 (鳥羽商船・昭和15年機関科卒) 著の 「太平洋戦争敗戦の真相に迫る」 と宇野公二氏 (東京高等商船・昭和17年航海科卒) 著の 「特攻船団戦記」 の両書からレイテ島攻防戦と輸送作戦の前後の一般戦況の関係箇所をピックアップして見てみる事にする。 日付に若干のずれがあるが此処では調整せず河埜機関長のメモ書きを正しいものとしてそのまま使用することにする。  昭和19年になると日本軍は玉砕に継ぐ玉砕で、 2月17、 18日にはトラック島が大空襲され、 日本艦船40数隻が撃沈され、 連合艦隊は内南洋のパラオまで後退した。 以後米軍は飛び石作戦で上陸し来たり、 遂に6月15日にはサイパン島に上陸、 そして6月19、 20日はマリアナ沖海戦で大本営の軍艦マーチ入り戦果発表とは裏腹に虎の子の大型空母3隻が撃沈され、 機動部隊は再起不能に陥った。 そして7月7日にはサイパン島守備隊が玉砕し、 東条内閣は総辞職する。 10月18日、 比島沖海戦があり、 米軍大部隊がレイテ湾に進攻、 日本軍は乾坤一擲捷1号作戦を発動するが失敗に終わり、 戦艦武蔵外3、 空母4、 重巡6、 軽巡4、 駆逐艦11隻沈没。 重巡5、 駆逐1大破。 ここに日本艦隊は消滅した。 10月20日米軍は大挙してレイテ島に上陸を開始。 大本営は大東亜戦争の天王山と決め、 開戦以来最高と言われる陸海空軍緊密な共同作戦を実施した。 25日特攻第1号神風特攻敷島隊、 人間魚雷 『回天』、 空からは落下傘部隊、 陸兵の逆上陸には、 「多号輸送作戦」 と称する一連の特攻輸送が行われた。 第1次は、 海軍一等輸送艦2隻、 小型舟艇数隻によって10月26日実施され、 第2次が最大で残存の船団速16ノットの最優秀船、 金華丸、 香椎丸、 高津丸、 能登丸が動員され、 関東軍の精鋭13,000名余と、 武器、 弾薬、 糧秣を満載し、 船団護衛にはキスカ撤退で有名な木村少将率いる第1水雷戦隊の駆逐艦6隻、 直接護衛に海防艦4隻を配し、 上空に海軍から零戦10機、 陸軍から疾風6機が出動した。 当時の戦況からみて最大限の船団と護衛だったと思われる。 10月31日マニラ出港、 11月1日19時入港、 陸揚げを完全に果たしたが、 能登丸は爆弾の集中攻撃で航行不能になり、 乗組員95名中5名戦死、 90名は香椎丸に便乗し、 3隻でマニラに帰投した。 その後12月初め頃の第9次特攻輸送を最後に12月19日レイテ戦は放棄された。 この様な特攻輸送作戦に健気にも8隻のか弱い鈍足の機帆船が活躍したことは記録に止めなければなるまい。

マニラ大空襲を受け、 我が艦船42隻が撃沈される

 昭和19年10月20日午前9時頃突然敵の戦闘爆撃機100機以上が襲来し轟々と空を圧し港内の艦船、 市内各所にたいして爆弾の雨を降らせた。 さらに午後にも第二波と続き、 これが3日間連続した。
 こうして敵の比島奪還作戦の幕は切って落とされた。
 この空襲でマニラ港に停泊していた艦船の大多数が撃沈され、 マニラ湾には撃沈・破壊された輸送船の残骸が哀れな姿をさらしていた。 また陸上でも重要施設の殆どが破壊されてしまった。 後で聞くと我が艦船42隻がマニラ港付近で撃沈されたという。


出撃命令下る!レイテ島へ特攻輸送

 敵はマニラを空爆で徹底的に叩くと同時にレイテ島タクロバンとドウラグに大挙10万の陸兵を上陸させて来た。 これを迎え撃つ我がレイテ島守備隊は僅か2万、 五分の一の兵力であった。
 そしてマッカーサー大将は巡洋艦上からフイツリピン全島に向かって 『私はマッカーサー大将である。 フィリッピン市民諸君、 私は約束どおり帰って来た。 云々』 と云う有名な放送を行なったのである。
 大型輸送船の 『多号特攻輸送作戦』 に伍して急遽機帆船の輸送船団8隻が編成された。 燃料補給後わが河山丸分隊には野砲兵一個大隊が乗船し、 火器・弾薬、 糧秣を満載した後“敵の目標になりやすいので”と云う理由でマストを根元から切り倒してしまった。
 昭和19年11月10日未明わが船団はマニラ港を出撃し敵機、 敵潜を警戒して陸地伝いに島影を利用してレイテ島に向かった。
 途中ゲリラ集団と戦い、 大嵐に遭遇する等して僚船は大破あるいは座礁した船もあり、 また隊員の一人が海中に転落するなどの事故もあったが、 河山丸は出港して6日目に無事レイテ島西岸の米軍上陸地点の反対側オルモックの入り江の砂浜に物資陸揚げのため擱座させた。
 マストを切り落しているので、 揚げ荷は全て人力である。 それは大変な重労働であった。 それでも兵隊と乗組員が夜を徹して協力で兵員と砲・火器の陸揚げに成功し、 わが増援部隊は敵撃滅の意気に燃えタクロバン方面へ前進していった。

危険水域から脱出/敵潜水艦と戦う

 前線からの情報によると前線の日本軍は善戦しているが、 いずれ衆寡敵せず全滅・玉砕も時間の問題だとのことで、 危険地帯に長居は無用と11月17日の満潮時に離浜して沖に錨をいれて日の暮れるのを待った。
 日が暮れると直ぐに焼玉を焼き、 錨を揚げエンジンハンドルを全速いっぱいにして危険水域からの脱出を図った。 しかしあまりハンドルを上げ過ぎた為煙突からは黒煙に混じって火の粉が相当出ていた。 それが目標になったのか敵潜に補足されてしまった。 後ろから敵潜水艦が浮上して追跡して来た。 段々迫って来る。 最後の手段として焼玉の過熱を防ぐためダンパーから清水を吸引させ、 エンジンハンドルを一杯に揚げた。 船体が震え、 煙突からは真っ黒い煙りに火の粉が混じる。 それでもこちらの船足は遅い。 いずれ追いつかれる事は時間の問題だ。 これ以上エンジンは上げられない。
 日高船長は全乗組員と船舶砲兵を船橋に集めた。 全員の決断は早かった。 『反転して潜水艦と一戦を交え、 最後に体当たり』 するという。 大きく反転して決死の覚悟で敵潜に対峙した。 次第に距離は縮まる。 砲兵は機銃座についた。
 ところがなぜか敵潜水艦が潜水していなくなったのだ。 そして幸いにも潜水艦は二度と浮上してはこなかった。 何故だろう。 船体を震わせ、 煙突からは黒煙と火の粉を上げて近付く河山丸に恐れをなしたのか? 『窮鼠猫を噛む』 か。 機帆船が潜水艦に勝ったのだ。 全員で万歳を三唱した。

ゲリラとの激戦

 次の日の朝、 昼間の航行の危険を避けてオルモック港に投錨した。 エンジンを停止しホットして上甲板に昇り何となく陸のほうを見ると、 赤や青の屋根の建物が色鮮やかに立ち並び一見いかにも平和な村のたたずまいである。
 しかし何かおかしい、 不思議なことに人影がないのである。 不気味に静まりかえっている。 と建物の陰で 『カーキ色』 の服が動いた。
 私の満州以来の戦場慣れした 『第六感』 が働いた。 『危険だ』 と感じ船団長に伝える。 『機関長すぐエンジンをかけろ』 機関室に飛び込むと同時に撃って来た。 機関室に集中してくる弾丸は機筒に当たって跳ね返る。 その一つが 『重油タンク』 を貫通した。 流れ出る油タンクに木栓にウエスを巻いて打ち込む。 必死でバーナーを全開し 『焼玉』 を焼く。 『“守”エアータンクのバルブを開けろ』 と叫ぶ。 神に念じつつ機関を始動し、 無我夢中で 『前進クラッチ』 を入れすぐに 『フルアヘッド』 にした。 テレグラフの命令もなにもあったものではない。 船が動き始め、 同時に敵の攻撃目標は操舵室に転じた。
 三方面から一斉に集中的に操舵室に向かって撃ってくる。 その一弾が舵輪を握っていた戸高船長の胸を貫いた。 即死である。 そばにいた衛生上等兵がとっさに舵交替して、“仰向けに寝そべり”両足で舵輪を回したと云う。
 敵の目標は船首に移った。 全速で陸岸から遠ざかる。 漸く敵の銃撃圏から外れた。 この戦いで“船長”と“登君”が戦死し“亘君”は右足に貫通銃創を受けた。 甲板長の江藤源次郎氏は健在であった。 本船には他船からの犠牲者30人が収容されている。 応戦した船舶兵の話によるとゲリラは本船に対して三方面から攻撃し、 最初に機関室次は操舵室それから船首部へと、 敵ながらゲリラはなかなか立派な戦いをする。 小憎い作戦だったという。
 30余名の犠牲者をだしゲリラとの戦いに敗れて、 首をうなだれてのお通夜のような航海であった。

河山丸が真二つに割れて浮いている

 レイテ湾を出て4日目、 昭和19年11月19日の未明、 薄明かりの中、 遠くにルソン島が浮かび、 やがてコレヒドール島が目の前に見えて来た。 遅い朝食に向かい箸を持った丁度9時頃“ドドーン”という轟音が響き船が大きくきしむ。 出てみると本船の後方50メートルぐらいの所に水柱が立ちのぼり近くで火炎が炸裂する。
 敵機はなおもしつこく我が機帆船船団に対して攻撃を繰り返してくる。 素早く機関室に入り注油器を手回しして、 ハッチ伝いに船首の方に逃れる。
 5発目の爆弾が本船の左舷に命中して船は大きく振動して私は爆風で海に投げ出されたらしい。 どれくらい気を失っていたのか解らない。 気が付くと海の上を漂っていた。 近くの小さな板きれに掴まり、 振り向くと河山丸が真二つに割れて浮いている。 前方にはコレヒドール島が浮きつ沈みつ遠くに見える。
 左足が折れたのか付いてはいるがブラブラしていて全く感覚がない。 歯も抜け落ちて無い。 一時間ほど漂流していると友軍機が飛来してハンカチを振る。 救助を待てという意味だろう、 安心して待つことにする。
 漂流してから12時間余り、 夜の9時ごろになってコレヒドール島守備の船舶工兵隊の救助艇が来てくれて助け上げられた。 最初かすれた声で 『兵隊さん水が飲みたい』 と訴えるとその兵隊は自分の水筒を渡してくれた。 腹一杯心ゆくまで飲んだ。 『その水のうまかったこと』 55年たった今でも忘れられない。
 この戦いで機関部の守君が船倉内で戦死し、 他船から乗り移った便乗者の中7名の方が命を落とした。

内地送還・病院船バイカル丸で

 船舶工兵隊の野戦病院で緊急手当を受け2日後の11月21日にマニラ市のケソン病院に亘君と共に移送された。 連日の空襲で死傷者が続出しこの病院でも玄関口まで担架がならび、 病院内は足の踏み場もない程で、 それに毎日のように負傷者の手・足の切断手術が行われ、 その苦痛を訴える悲鳴が病院内に響き渡り、 精神的に参ってしまった。 またその頃勢いを増した抗日ゲリラは毎夜のように病院を狙い発砲してくる。 何時迄此の身体が持つだろうか。
 そんなある日、 忘れもしない12月26日、 『内地送還者の名前』 が発表された。 その中に私の名前も含まれているではないか。 夢ではないかとホホをつねる。 痛い、 嬉しい。 内地へ還れるのだ。 感無量。 涙が涌き出る。
 数日後病院船バイカル丸がマニラに入港した。 帰還を許された者全員病院前の広場に集合し、 すぐにトラックで港に運ばれた。 船は大きく逞しい。 しかも十字のマークに煌々と点灯している。 力強く感じた。
 全員の乗船が終わると船は直ちに錨を揚げ全速力で内地に向かった。 病院船であるからまだるっこい 『之の字運動』 の航海ではなくフルスピードで一直線に内地を目指す。
 昭和20年1月4日、 もう二度と見ることは出来ないと思っていた懐かしい祖国に着いた。 門司港の埠頭に横着けになる。 トラックで小倉陸軍病院に移送される。 南方還りにとっては内地の冬は寒い、 しかし病院の食卓に並べられた日本米の暖かいご飯と、 圧搾味噌ではなく本物のお味噌で作った熱い湯気の立ち上ぼるオミソシルに接して嬉しさで熱い涙がこみあげて来た。
 2、 3日したある雪の降る日、 美々津から父と兄貴が面会にきてくれた。 懐かしさに涙があふれた。 二人は私の痩せた姿を見て 『苦労したのだろう』 と涙ぐんでいた。

小倉病院/広島病院/玉造分院を転々として

 1月20日小倉病院から広島陸軍病院に移送されることになり、 小倉駅に傷病兵の担架がずらりと並んだ。 とある一人の上品なご婦人が私の担架に近づいて来て 『大変でしたね、 ご苦労様でした』 と涙ぐまれ、 そのころ貴重なチューブ入りの水あめを私に下さったので、 有り難く頂戴した。 涙が出た。

原爆投下、 玉音放送、 終戦、 そして故郷へ

 4月に入り機能障害治療のため島根県の 『玉造分院』 に転院した。 玉造町は松江市の西方4キロ程のところの山間地で旅館を接収して療養所にし、 一つの旅館に20名ほどずつ分宿していた。 きれいな小川、 新鮮な空気、 すばらしい景色のなかでのんびりと療養生活を送っていた。
 8月6日、 広島に原子爆弾が投下され広島は壊滅的な打撃を受けた。 続いて9日には長埼に原爆投下。 8月15日正午天皇陛下の 『玉音放送』 で太平洋戦争は終わった。 9月20日玉造分院は解散となり、 その日のタ刻に分院に 『さようなら』 を告げ、 故郷美々津に向かった。
 昭和11年、 21歳で現役兵として満州に渡り、 2回目は昭和13年には支那事変で招集されて中支に出征。 そして3回目は昭和19年に陸軍暁部隊の徴用船で、 フィリッピンに行き、 負け戦さの中で、 船は沈没し、 九死に一生を得て運よく病院船に乗れて還って来た。
 さらに原爆投下の前に広島を去り山陰の玉造温泉でのんびりと療養中終戦になった。
 これで私の戦争も終わった。 その時、 私も31歳になっていた。
 美々津・幸脇で機帆船と共に出陣した生き残りただ一人。 不思議に命永らえ、 思えば幸運の連続であった。
                                                         完