関門海峡の歴史・改革と四方山話

 


   山 本 徳 行 

 全船協関門支部長 
 広島商船高等専門学校校友会長 
 (有)ケイ・エム・エス・コーポーレーション 取締役社長 






 昭和30年代半ばまで下関海峡と呼ばれていた関門海峡の歴史を語るには、 源平合戦が思い浮かぶ。 歴史的には壇ノ浦の戦として語り継がれ、 戦場は関門橋の橋脚付近 (長門の国・赤間関壇ノ浦、 現下関市) である。 先ずは、 平家物語から 『祇園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり、 沙羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらわす。 奢れる者久しからず、 ただ春の世の夢の如し、 猛き人もついには滅びぬ。 ひとえに風の前の塵に同じ』

源平合戦
 約820年前、 「平家であらずば人に非ず」 とまで言われたほどの栄華を誇った平家一族は、 四国屋島の戦いで源義経の奇襲に敗れ、 当事、 平知盛の居城であった彦島まで落ち延びてきた。 平家が九州・四国の水軍を集め源氏に対して最後の合戦を挑んだのは、 元暦2年 (西暦1185年) 3月24日で、 平安時代の末期、 治承・寿永の乱の最後の戦いであった。
 合戦は午の刻 (12時頃) から申の刻 (16時頃) に行われたとして、 潮流が東向きだった時間帯は平家が潮の流れに乗って戦局は有利に展開したが、 途中、 潮の流れが変わり西向きになって形勢が逆転し源氏が勢を盛り返した。 諸々の潮流説があるが、 大正時代に海軍水路部の潮流の調査を元にした、 黒坂勝己東京大学教授が提唱した潮流説によると、 当日の関門海峡の潮流は午前8時30分に西流から東へ反転して、 午前11時頃には8ノットに達し、 午後3時頃に潮流は再び西へ反転したと記述されている。
 源氏は摂津国の渡辺、 伊予国の河野、 紀伊国の熊野水軍などを味方につけて840艘、 対する平知盛が率いる平家軍は、 松浦党約100艘、 山鹿秀達300艘、 平家一門100余艘の総勢500艘の編成であった。
 船の運用に長けた平家軍は潮流の変化が激しい海峡を熟知しており、 速い潮流に乗って源氏軍に矢を射掛け、 海戦に慣れない坂東武者の源氏軍を押した。 源氏の水軍は満珠・干珠島の辺りまで追いやられ、 平家軍は勢いに乗って敵将源義経を討ち取ろうと攻め立てた。 不利を悟った源義経は平家軍の漕ぎ手や舵取りを狙って矢を射るよう命じた。 この時代の海戦では非戦闘員の漕ぎ手や舵取りを射ることは戦の作法に反する行為だったが、 義経はあえてその掟破りを行って戦況を有利にした。 漕ぎ手を失った平家の水軍は船の自由が利かなくなり、 やがて潮の流れが変わり源氏軍はこれに乗じて平家軍を押しまくった。 加えて九州・四国の平家軍勢の一部が源氏に寝返ったため、 壊滅状態となり勝敗は決し、 敗北を悟った平家一門は次々と海中へ身を投じた。 長かった源平の戦いも、 壇ノ浦で幕を閉じることとなった。
 その時、 平家の二位ノ尼は、 当時八才だった幼帝、 安徳天皇を胸にお抱きになり 『今ぞ知る、 みもすそ川の御流れ、 波の下にも都ありとは』 と辞世の歌を詠まれ東の空に手を合わせながら、 海の波間に沈んで行った。 安徳天皇が入水された日、 3月24日に白い鴎が飛ぶと羽が抜ける、 又この日に漁師が海上で源平合戦の話をすると、 船が後ろに進むと言う伝説がある。
 関門海峡では、 小さな蟹の甲羅に平家の落人の怨念の顔が浮いているように見えるので、 平家蟹と呼ばれている蟹もおる。 定かではないが、 壇ノ浦の漁師は正座をして漁を行っており、 これは平家に対して威儀を正したものだと言われている。

巌流島の決闘
 歴史は繰り返すで、 関門海峡には宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘を行った歴史の島 「巌流島」 がある。 正式名称は 「船島」 で船の形をしていたところから付けられたとものと言われている。 巌流島は武蔵・小次郎の決闘場所として吉川栄治の小説でも有名になった。 島の名は決闘で敗れた佐々木小次郎の流派が 「佐々木巌流」 と称していた為、 小次郎を偲んで 「巌流島」 と呼ばれるようになった。 又、 巌流島の西側、 彦島には小次郎が弟子を待たせて一人で島に渡ったところから、 現在でも 「弟子待」 と呼ぶ地名が残っている。

 決闘の様子は小説や映画等でよく知られているが簡単に紹介すると、 いまから約400年前、 慶長17年 (1612年) 4月13日、 武蔵と小次郎が約束した決闘時間は午前10時であったが、 武蔵は約束の刻より遅れること約1時間余り、 島に着いたのは11時過ぎであった。 待たされた小次郎は武蔵を見ると苛立ちの余り、 海辺に駆け寄り刀を抜くと同時に刀の鞘を海に投げ捨ててしまった。 その時、 武蔵は 『今日の試合は既に勝負あった。 汝の負けと見えたぞ。 勝つ身であれば何で鞘を投げ捨てる。 鞘は汝の天命なるぞ。 惜しや小次郎。 散るか小次郎。 早、 散るを急ぐか』 と小次郎を諭した。 武蔵の足元から水音が起り、 足が地を離れると同時にその姿は宙に浮いた。 小次郎は頭上の長剣で大きく宙を切りその剣先から、 敵の武蔵が額に絞めていた柿色の手拭が二つに切れてパラッと宙に舞った。 吉川栄治作 『宮本武蔵・巌流島決闘の場面』 のくだりだ。 結局、 勝負は武蔵の勝利に終ったが、 小次郎は自分の刀が武蔵の眉間に当たり鉢巻が切れたので武蔵を倒したと確信してか、 微笑を浮かべて息絶えたと言われている。

 巌流島は明治時代から埋め立てられ、 現在は元の約6倍となった。 島の中央付近にフェンスが張られ、 西側の一部が三菱重工業下関造船所の所有地、 東側は下関市所有の土地で、 きれいに整地され公園として整備された。 南の端にあった灯台は撤去され、 武蔵・小次郎決闘シーンの像が建立されて、 休日には観光客が訪れ賑わっている。 20数年前までは、 巌流島東側の砂浜は干潮時に貝堀りの人々で賑わっていたが、 島全体が整備されたので昔の面影はなくなった。

トンネル・橋
 関門海峡には、 九州・本土の交通網としてトンネルが三箇所と関門橋がある。 最も古い関門鉄道トンネルは、 今から74年前の昭和10年 (1935年) に着工し第2次世界大戦中の昭和17年6月から昭和18年12月の間に開通した。 このトンネルの開通によって、 九州内の鉄道、 鹿児島、 日豊、 長崎各本線は、 全国鉄道網に連結され、 下関と門司間の関門海峡を長期間利用していた連絡船で乗り継ぐ不便もなくなった。
 関門国道トンネルは昭和12年末 (1937年) に起工し、 昭和33年3月の開通まで、 設計など準備段階を含め、 実に22年間の歳月を要した。 このトンネルの構想は明治の末期に起こり、 昭和の初期に計画段階に入っている。 関門海峡を通過する大量の国内貨物は、 将来、 船舶だけでは到底さばき切れず、 トラックを利用するため、 本土と九州を道路で繋ぐ必要があった。 昭和7〜8年頃、 当時の内務省はトンネルか橋かを検討した結果、 同10年トンネル案に決着した。 昭和初期には、 日本の国威が強く多くの国民はまさか本土が空爆を受けることはないと信じていた。 しかし、 検討に参加した識者間では空爆の恐れが問題となり、 最終的にトンネル案が採用された。 トンネルは円筒形の全長3416m、 海底部780m、 2層構造の鉄筋コンクリート製で、 上部が車道、 下部が人道となっている。 人道は通風塔を利用してエレベーターが設置され、 空調完備で格好の散歩・ジョギングコースである。

 JR新関門トンネルは新幹線用として、 下関の椋野と小倉の赤坂の間の全長18.7km、 昭和45年 (1970年) に起工して僅か5年間で完工した。 昭和50年3月、 山陽新幹線の広島・博多間の開通に合わせて竣工した。

 関門橋は経済成長期に建設され、 昭和43年 (1968年) に起工し、 5年7ヶ月の短期間で完成、 昭和48年11月14日に開通した。 関門海峡の狭隘部、 早鞆瀬戸 (本州と九州の最も狭い場所、 680m) の真上に架かり何処から見ても素晴らしい美観である。 橋の全長は1068m、 橋脚間712m、 高さは満潮時海面から橋桁の下部まで61m、 因みに使用材料は鋼材3万トン、 コンクリート15万トン、 吊橋の鋼線は直径約70cmである。
 夜間の橋脚照明灯は薄い水色で、 通航船舶の弊害にならないように配慮されている。 道路照明灯は左右各101個で、 電源は上り車線は中国電力、 下り車線は九州電力が供給している。
 関門橋は世界最大の豪華客船 『クイーン・エリザベス』 が安全に通過できる近代的設計で、 近づけば迫力さえ感じる6車線の雄大な吊り橋である。

関門海峡の改革
 関門海峡は明治19年 (1886年)、 国による潮流調査及び港湾計画の検討が開始された。 明治中期以降、 門司港は石炭の積出港として、 下関港は明治38年 (1905年) 開始された関釜定期航路の基地として飛躍的に発展し関門海峡を往来する船舶が激増した。 しかし当時は帆船が多く速い潮流の影響で海峡内に点在する浅瀬や岩礁により、 海難事故が多発、 本格的な港湾開発の要請があった。
 明治22年 (1889年) 門司港が特別輸出港に指定され開港した。 同時に中央と地元との合弁資本により港湾整備に着手、 以来10年間かけて塩田を改修して港を構築した。
 明治32年門司港は港の形態が整ったが、 更なる港湾整備を進めた。 明治末期から大正年間にかけて、 門司港には中国、 朝鮮、 台湾、 南洋航路等の定期船が続々寄港し、 日夜入出港船で港も街も繁盛した。
 明治40年 (1907年) 正式な港湾調査会が発足、 同43年第一期改良工事に着手、 関門海峡東口の工事を開始した。 大正10年 (1921年) 日本郵船の欧州航路の定期船が寄港し、 門司港は日本三大港の一つとなる。 昭和4年 (1929年) から第2期・3期と改良工事に着手し航路の幅員や水深を整備して、 以来16年後の昭和20年 (1945年) 関門航路は水深10mの整備が完了した。 昭和6年 (1931年) 門司港は西海岸埠頭、 外浜埠頭などを改修し寄港船の接岸荷役が可能となる。

 第二次世界大戦の終戦直前に九次に亘る空襲で港と街は廃墟と化し、 港の内外に投下された数千発の磁気機雷のため、 港の機能は完全にマヒ状態となった。 終戦後、 およそ五年たって掃海を完了、 昭和24年 (1949年) 関門港の機能は回復した。

 昭和35年 (1960年) 関門航路整備計画に伴って港湾審議会が開催され、 航路水深13mに整備することで決定したが昭和42年 (1967年) 港湾整備5ヵ年計画により当面の目標水深11mで整備が開始された。 その間、 田ノ浦、 小倉、 戸畑沿岸の埋め立てで臨海工業地帯が進行した。

 昭和49年 (1974年) 国内主要港の開発保全航路制度が発足し、 関門航路は開発保全航路に指定された。 昭和52年の港湾審議会において、 部埼地区中央水道の拡幅及び六連地区の航路の拡幅と直線化を行うことが決定し整備が開始された。 田の浦及び太刀の浦地区はコンテナー貨物に対応する為の埋め立てが完成し、 小倉周辺の埋立てもほぼ完了、 現在の形になる。

 昭和63年 (1988年) 関門海峡の航路水深は全域に亘って11.5mに整備され、 関門航路を通航できる大型船舶の制限が緩和されると共に、 太刀の浦コンテナー・ターミナルの供用が開始された。 その後、 関門航路の整備は計画に沿って順調に行われ、 平成10年 (1998年) 末で航路全域に亘り水深12mに整備された。 現在、 大型コンテナー船 (3万 DWトン) が常時関門海峡を通航できるように、 航路水深13mを確保することを最優先に整備が進められている。

 平成11年には関門航路整備計画の一部が変更され、 門司区前面の航路屈曲部の隅切りを行い航路幅の拡幅、 西航船の安全航行の為彦島に導灯の新設、 六連島西側航路を直線化し延伸することが決定した。 その発端となったのは、 平成9年 (1997年) 11月関門橋の西、 航路の中央付近で衝突・沈没した中国船籍の 「C・H」 事件である。 この事件の詳細については、 会報105号に掲載の 「船骸撤去の四方山話」 を参照乞う。

 ところで、 私事で恐縮だが、 長老の勤めと認識し、 関門港において外国船舶安全対策連絡協議会の会長をボランティアで務めて20年近くになる。 関門港およびその周辺の海域に於ける外国船舶の海難防止および海上交通の安全を促進する為、 船舶の運航形態に関わる情報の提供や関係官庁への安全対策の建議等について、 積極的に取り組んできた。

 お陰様で、 これら活動が実を結び関門港およびその周辺において重大海難事故が減少したのではと自負している。

 近年は、 P&I保険加入義務化、 AIS の活用、 港湾手続きの簡素化及び海上交通環境の向上に伴う規制緩和等で船舶運航の新時代が到来した。
 今年度は、 ふくそう海域における安全性の向上や港内船舶交通の効率化・安全対策の強化を計るため、 港則法の改正が行われる予定だ。 関門港長や関係者の要請もあり、 当分の間、 会長職を引退できそうもない。 幸いにも健康に恵まれているので、 周囲の皆様のご協力を得ながら、 今しばらく活動を続け、 世のため人のために尽力したいと考えている。

 終わりに、 母校、 広島商船高専の練習船 「広島丸」 は10年来、 海の日を中心に門司港に寄港し地元の小・中学生 (保護者同伴) を乗船させ関門海峡内の体験航海を実施している。 当初は学校・校友会の主催で実施していたが、 数年前から北九州市港湾局の協力を得て、 体験航海だけでなく母校の学生応募の宣伝を兼ねて、 船内見学や繋留岸壁前の海峡ドラマシップのホールで、 学校紹介パネルの展示やロボット・ソーラーカーを活用した広報活動を実施している。
 体験航海の模様が毎年 NHK テレビで放映されているので、 現在では多くの市民の興味を呼び、 体験航海の応募者や見学者が数百人を超える盛況ぶりである。 後輩が一人でも多く実現することを期待する。